伝記
ムンタスィルは、アッバース朝の第11代カリフ(在位861年〜862年)である。本名はムハンマドで、837年11月に生まれたとされる。第10代カリフ・ムタワッキルの長男で、母はギリシア系の女奴隷フブシーヤだった。誕生のとき父は14歳だったという。治世は、都サーマッラーで権力闘争が続いた「サーマッラーの無政府状態」と呼ばれる時期にあたる。
849年、ムタワッキルは3人の息子を後継者に定め、各地の統治と収入を割り当てた。長男のムンタスィルは第一の後継者としてエジプトとジャズィーラの統治、さらに都サーマッラーの地代収入を受け持ち、次男のムウタッズはホラーサーン、ムアイヤドはシリアの管轄を任された。850年から851年にかけては、ムンタスィルが巡礼を率いたと伝えられる。しかしムタワッキルは次第に次男ムウタッズを偏愛するようになり、ムンタスィルを冷遇した。ムウタッズの擁立は従来のアッバース家の有力者層に支えられ、ムンタスィルはトルコ系やマグリブ系の親衛軍に支えられていたとされる。
861年の秋、対立は頂点に達した。10月にムタワッキルがトルコ系の将軍ワスィーフの領地を没収してファトフ・ブン・ハーカーンに与えるよう命じると、追い詰められたトルコ系の指導者たちは、カリフ暗殺を企てた。ムンタスィルも、屈辱を重ねられた末に陰謀に加わったか、少なくとも黙認したとされる。12月5日にはラマダーン明けの金曜礼拝の導師を、ファトフらの進言でムウタッズに奪われた。3日後には病んだ父に代理を指名されたが、またも説得でカリフ自身が出席することになった。さらに父は彼をののしり、殺すと脅し、ファトフに顔を平手打ちさせたともいわれる。12月10日から11日にかけての夜、トルコ兵が食事中のカリフの部屋に踏み込み、守ろうとしたファトフとともにムタワッキルを殺した。
ムンタスィルは12月11日にカリフとなり、疑いをかけられながらも都の実権をすばやく握り、主だった人々から忠誠の誓いを受けた。当初はファトフが父を殺したと主張したが、やがて公式には、父は飲み物をのどに詰まらせて死んだと説明が改められた。ムンタスィルはシーア派に対して父より好意的な政策をとった。アリー家への制限をいくつか緩め、カルバラーのフサイン廟への参詣を許し、ファダクなど財産や特権の一部を一族に返した。第10代イマームのアリー・ハーディーとも良好な関係を保ったという。また、将軍ワスィーフに率いさせてビザンツ帝国と戦った。
しかし862年6月7日、ムンタスィルは急死した。父の侍医の一人に毒殺されたともいわれる。ムスタイーンが後を継ぎ、ビザンツ遠征は短期間続いてワスィーフが戦果を挙げたものの、政権交代のためサーマッラーに引き揚げた。
同じ年に亡くなった人物
- Bugha al-Kabir (862年)
同じ地域に関係する人物
- アリー・ハーディー (868年没)
- アブー・アイユーブ・アル=マスリー (2010年没)
- ムフタディー (870年没)
- Umar Shaikh (1394年没)
- イブラーヒーム・イブン・アル=マフディー (839年没)