伝記
エルマントルド・ドルレアンは、西フランク王シャルル2世(禿頭王)の最初の妃である。生年は823年とも825年から830年の間ともされ、9月27日に生まれたといわれる。没したのは869年10月6日である。父はオルレアン伯ウード、母はパリ伯ルタール1世の娘アンジェルトルド・ド・フェザンサックで、ピピン1世、カール・マルテル、最後のランゴバルド王デジデリウスの血を引くとされる。ウダルリヒ家と親族関係にあるゲロルト家に属していた。
842年12月13日または14日、キイジーの王城でシャルル禿頭王と結婚した。結婚の地についてはクレシー=アン=ポンチューとする説もある。夫妻は9人の子をもうけた。長女ジュディトはウェセックス王エゼルウルフ、続いて継子のエゼルバルドと結婚し、のちにフランドル伯ボードゥアン1世の妻となり、870年ごろまで生きたとされる。長男ルイ2世は西フランク王となった。シャルルはアキテーヌ王となったが866年に没し、ロタールはサン=ジェルマン修道院長となって865年ごろに亡くなった。カルロマンは修道院長となり、876年に没している。ほかにロトルド、エルマントルド、イルドガルド、ジゼルがおり、娘のうち修道女になった者もいた。四人の息子のうち王位に就いたのは長男のルイ2世だけで、ロタールは足が不自由であったとされる。カルロマンは反乱を起こしたため、父の命で目をつぶされ、傷がもとで876年に死んだともいわれる。ロトルドはポワティエのサント=クロワ修道院長、エルマントルドは877年にアスノンの修道院長になったと伝わる。末のゴドヒルドは864年に生まれ、修道女となったともされる。
王妃の役割は、宮廷内の秩序を保ち、子らの教育や使用人の監督、王室の私的な財産の管理を担うことだったと説明される。贈り物を通じて高官との絆を保つ役目もあった。同時代の哲学者ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナは彼女を「強い女性」と呼び、貞潔さと敬虔さ、絶えざる祈りをたたえた。彼女の名で出された書簡は2通、彼女に宛てた書簡は5通が残り、シャルルの発した12の証書にも関わっている。暇な時間には刺繍の才を見せたという。シェルやアヴネの修道院など、宗教施設とも関わりが深かった。
866年、ランス大司教ヒンクマールによって聖別を受けた。結婚から20年以上たってからの、花嫁ではなく妻としての戴冠であった。式ではたびたび聖書のサラになぞらえられ、ヒンクマールは彼女に、ラケルのように愛らしく、レベッカのように賢く、サラのように忠実であることを求めた。世継ぎに恵まれる王朝への祈りが込められていたと解釈されている。冠を受けた場所はソワソンのサン=メダール修道院ともいわれる。
同じ866年、弟のギヨームが義兄シャルル王への反逆罪に問われて刑死した。翌867年、エルマントルドは夫のもとを去り、ヴァランシエンヌ郊外のアスノン修道院に入った。別れの原因については、ロタール2世が不妊を理由に妃テウトベルガを離縁しようとしたことをめぐる対立とする説明もある。エルマントルドがテウトベルガの側に立ったという。夫には愛妾リシルドがいたともいわれる。離縁はされなかったとされる。2年後の869年に亡くなり、サン=ドニ大聖堂に埋葬されたとされるが、アスノンに葬られたとする記述もある。シャルルは翌870年にリシルド・ド・プロヴァンスと再婚した。
同じ年に亡くなった人物
- Al-Darimi (869年)
- エドマンド殉教王 (869年没)
- ロタール2世 (869年没)
- キュリロス (スラヴの(亜)使徒) (869年没)
- ムウタッズ (869年没)
同じ地域に関係する人物
- ボードゥアン3世 (フランドル伯) (962年没)
- フィリップ1世 (ナミュール侯) (1212年没)
- ルイ2世 (フランドル伯) (1384年没)
- ジョスカン・デ・プレ (1521年没)
- ウィルフレッド・オーエン (1918年没)