HISTORICAL PERSON · 872年没

ハドリアヌス2世 (ローマ教皇)

第106代ローマ教皇(在位867〜872年)。貴族の出で高齢で選ばれた。ニコラウス1世が得た教皇職の優位を手放す失敗があり、ブルガリア教会はローマを見限り、コンスタンティノポリス総主教の傘下に入った。

生涯
872年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ハドリアヌス2世は、第106代ローマ教皇(在位867年12月14日〜872年12月14日)である。792年にローマの貴族の家に生まれ、教皇ステファヌス4世や教皇セルギウス2世の縁者であったとされる。父は後に司教となった人物という。若いころに結婚してステファニアという女性との間に娘をもうけ、のちに妻帯のまま司祭となり、司祭や枢機卿を歴任した。

867年11月13日に先代のニコラウス1世が没すると、12月14日に75歳の高齢で教皇に選ばれた。76歳を超えていたとする記述もある。彼は二度にわたって教皇職を辞退しており、今回は本人も就任に異を唱えたが、ローマの民衆と聖職者の一致した支持によって三度目は断れなかったという。選挙の場には招かれてもいなかった皇帝ルートヴィヒ2世の使節が居合わせ、招かれなかったことに不満を述べたが、軽んじたのではなく、君主の使節の到着を待って選ぶ慣行がつくのを避けるためだと答えられた。皇帝はこの選出に大いに満足したとされる。叙任の儀式の最中には、スポレート公がローマに入って略奪しようとしたため、即座に破門され、皇帝はその公領を取り上げた。彼はまた、先代が破門していたトリーア大司教ティートガウトらを教皇庁と和解させた。

教皇としては、ニコラウス1世の路線を、ただし先代ほどの気力を欠いたまま継いだとされる。869年にロタール2世が没すると、その兄弟である皇帝ルートヴィヒ2世に帝位の継承権を確保するため、フランク諸王の間の調停役を務めた。皇帝の南イタリアでの遠征はイスラーム勢力の脅威から教皇庁を解放しうるものであったため、良好な関係の維持に努めたという。ただし世俗の事柄では皇帝の干渉を受け、側近のオルテの司教アルセニウスと、その甥アナスタシウスによって監視下に置かれた。

コンスタンティノープルでは、東ローマ皇帝バシレイオス1世が総主教フォティオスを追い、その対抗者イグナティオスを支持した。この問題を決めるために召集された第4回コンスタンティノープル公会議で、ハドリアヌスの代理の使節が議長を務めてフォティオスを異端として断罪したが、ブルガリア教会の管轄をめぐってはイグナティオスと合意に至らなかった。ブルガリア教会は結局ローマを離れてコンスタンティノープル総主教の傘下に入った。一方、モラヴィアで働くキュリロスとメトディオスを支持し、新しいスラヴ語の典礼の使用を認めた。のちにメトディオスを司祭に叙階し、869年にはシルミウムの大司教に叙した。西方では、西フランク王シャルル禿頭王に反乱を起こした子カルロマンの側に立ち、フランスの司教たちの敵意に押されて最終的に退いたとされる。

在位中、家庭に悲劇が起きた。彼の妻と娘はラテラノ宮殿に移り住んだが、868年、アルセニウスの子エレウテリウスが二人を誘拐して殺害した。エレウテリウスは既に婚約者がいたことを隠して娘と結婚していたとされ、死刑を宣告された。ハドリアヌス2世は872年12月14日、ちょうど5年の在位を経て没した。没月を11月とする説もある。教皇権の理解は広かったが、その無欲さと貧しい人々への寛大さによって、死後は好ましい記憶を残したと伝えられる。

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