伝記
アウルス・リキニウス・アルキアスは、古代ギリシア人の詩人である。紀元前121年、あるいは120年頃にシリアのアンティオキア(現在のトルコのアンタキヤ)で生まれ、紀元前61年にローマで没したとされる。生地で学んで自由学芸の教育を受け、学校に通うころから詩人としての並外れた才能を示したという。
政情の不安のため、まだ若いうちにアンティオキアを離れ、小アジア、ギリシア、イタリアの主要な都市を巡った。どの都市でも名声は高まった。紀元前102年にはすでに、とくに即興詩人としての評判を確立してローマへ赴き、最も有力な名門の家々に迎えられた。主な庇護者はルクッルスで、アルキアスは彼の氏族名であるリキニウスを名乗った。のちにキケロの教師となり、文学への関心を促したとされる。
紀元前93年には、庇護者とともにシチリアと南イタリアを訪れ、同盟市のひとつルカニアのヘラクレアの市民権を得た。さらにプラウティウス・パピリウス法の規定により、間接的にローマの市民権にもつながった。この法に基づいて法務官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスのもとに登録し、ローマに居住するという別の条件も満たした。こうして、同盟国の市民にローマ市民権を与える新しい法のもと、紀元前89年にローマ市民となった。ところが、何らかの理由で、この年の監察官の名簿には名前が記されなかった。
アルキアスはその後27年間、市民権を平穏に享受した。ところが紀元前62年、ルクッルスの政敵の手先とされるグラッティウスが、不法に市民権を得たとして訴えた。キケロは演説『詩人アルキアス弁護』でこれを弁護し、勝訴した。キケロの弁護は、ヘラクレアの市民権を得ていたという法的な根拠だけでなく、仮にまだ持っていなかったとしても、詩の才能とローマへの文学的貢献ゆえに市民権を与えるべきだという点にも及んだ。文学の創り手は、ほとんどどこでも高く敬われてきたとも強く論じた。
この演説は、アルキアスについての情報のほぼすべてを伝える。それによれば、アルキアスはキンブリ戦争とミトリダテス戦争でのマリウスとルクッルスの功業を詩にうたい、キケロの執政官在任中の出来事を題材にした詩にも取り組んでいた。『ギリシア詞華集』にはアルキアスの名による35篇のエピグラムが収められているが、そのうちどれだけが本人の作かは疑わしい。
同じ年に亡くなった人物
- Mariamne II (紀元前60)
- アレタス4世 (紀元前60)
- マルクス・コッケイウス・ネルウァ (紀元前36年の執政官) (紀元前 60年(推定))
- プブリウス・アルフェヌス・ウァルス (紀元前 60年(推定))
- Orgetorix (紀元前60)
同じ地域に関係する人物
- マルクス・フルウィウス・フラックス (紀元前125年の執政官) (紀元前121年没)
- アドリアン・オーズー (1691年没)
- プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前283年の執政官) (紀元前282年没)
- グレゴリウス11世 (ローマ教皇) (1378年没)
- アントニオ・マルチェッロ・バルベリーニ (1646年没)