伝記
エンマ・フォン・アルトドルフ(ヘンマとも)は、808年ごろに生まれ、876年1月31日に没した東フランク王妃である。ヴェルフ家の祖とされるアルトドルフ伯ヴェルフ1世と、ザクセン出身のハイルヴィヒ(835年以降に没し、のちシェルの女子修道院長になったとされる)との間の娘で、兄弟には伯の一人と、姉のユーディトがいた。
ユーディトは819年に皇帝ルートヴィヒ1世の2番目の妃となっていた。ルートヴィヒ1世の最初の結婚による子の一人が、817年の帝国整備令でバイエルンの統治者と定められたルートヴィヒ(のちのルートヴィヒ2世)である。823年にユーディトの子カールが生まれると、三人の兄に分けるはずだった帝国の分割が揺らいだ。ユーディトは継子の一人を味方につけ、一族の影響力を高めようとして、827年に自分の妹エンマとこのルートヴィヒの結婚を整えたという。バイエルンを継ぐ予定の彼にとって、新しい王国の有力家門ヴェルフ家と結ぶ縁でもあった。こうしてエンマは、実姉の義理の娘にあたる立場になった。夫は833年の父に対する反乱に兄弟とともに加わったが、840年に父が死ぬと弟のカールと組んで長兄ロタールと戦い、フォントノワで破った。843年のヴェルダン条約で夫は東フランク王となり、エンマはその王妃となった。
夫妻には3人の息子と4人の娘が生まれた。長女ヒルデガルトと、のちに妹ベルタは、ともにマインのミュンスターシュヴァルツァハ、さらにチューリヒのフラウミュンスターの女子修道院長を務めた。イルムガルドはフラウエンキームゼーの女子修道院長となり、ギーゼラはシュヴァーベン宮中伯ベルヒトルト1世に嫁いだ。息子のカールマンは830年ごろ生まれ、876年から880年までバイエルン王であった。ルートヴィヒ3世は835年ごろに生まれ、フランケン、ザクセン、テューリンゲン、フリースラントを治めて882年に没した。カール3世は839年ごろに生まれ、アレマニア、アルザス、ラエティアの王となり、881年から887年まで皇帝、885年からはフランク王も兼ね、888年に没した。なお、829年のヴォルムス帝国会議で皇帝の末子カール(のちの禿頭王)にアレマニアなどが与えられたことが、王家内の長い争いの発端になったとされる。系譜学者の一人は、エンマに最初の夫との間の娘がいた可能性まで論じているが、仮説にとどまる。
記録にエンマの名はほとんど現れず、政治上の重要な役割はあまり果たさなかったと考えられている。文献は彼女の徳と美しさ、模範的な結婚生活を伝える。一方、ランス大司教ヒンクマールは、長男カールマンを偏愛したとしてエンマを非難した。伝えられるところでは、その影響力のために夫は他の息子たちの領地を削ってカールマンの領地を大きく広げ、三男カール3世を中心とする反乱が起きたが、和解で収まったという。
874年末、エンマは麻痺を患って話せなくなり、876年1月に世を去った。夫は前年に見舞ったのが最後で、死のときにはそばにいなかった。夫はその約7か月後に没し、ロルシュの教会に葬られた。エンマの埋葬地は、レーゲンスブルクの聖エメラム修道院かオーバーミュンスター修道院かで見解が分かれ、中世の記録が矛盾しているため今も確定していない。オーバーミュンスターとは死の時まで近しい関係にあったと思われるが、同時代の記録は現在墓のある聖エメラム修道院への埋葬を伝える。その墓石は13世紀ドイツの重要な彫刻の一つとされる。
同じ年に亡くなった人物
- コツェリ (876年)
- ルートヴィヒ2世 (東フランク王) (876年没)
- コンラート2世 (オセール伯) (876年)
- Domagoj of Croatia (876年没)
- Heiric of Auxerre (876年)
同じ地域に関係する人物
- ヘルマン・エッサー (1981年没)
- アレクサンダー・シュモレル (1943年没)
- アルブレヒト (ザクセン=コーブルク公) (1699年没)
- Ossi Reichert (2006年没)
- ヘルムート・ハーラー (2012年没)