伝記
ルートヴィヒ2世は、カロリング朝の初代東フランク王で、在位は843年から876年である。804年に生まれ、876年8月28日に没した。ルートヴィヒ1世(敬虔王)の子で、母は父の最初の妃エルマンガルド・ド・エスベイである。「ドイツ人王」と称される。ポルトガル語版は、父帝の三男としている。若いころの一部を祖父カール大帝の宮廷で過ごしたという。
817年、帝国整序令によってバイエルンの支配権を得たが、実際に統治を始めたのは825年で、それまでは領地の東に住む諸民族との戦いに追われていた。827年には、アルトドルフ伯ヴェルフの娘ヘンマ(エンマ)と結婚した。ヘンマは父帝の二度目の妃ユーディトの妹で、二人の間には3男4女が生まれた。娘のうち、ヒルデガルドとベルタは女子修道院長となり、ギーゼラはシュヴァーベン宮中伯ベルヒトルト1世に嫁いで、後のドイツ王コンラート1世の妃クニグンデの母となった。父帝の治世にはたびたび内戦が起こった。ルートヴィヒは最初の内戦では兄弟たちの争いにあまり加わらなかったが、次の内戦では、兄たちがユーディトの子カールに与えられた領地の奪取をそそのかした。父帝は彼を廃嫡すると宣告したが、兄たちが父帝を捕らえて退位させた。やがて父帝は復位し、836年にバイエルンを継承させた。それでも839年、父帝が末弟に領地を割いたことを口実に第三の内戦を起こしたが、父帝に押し戻され、平和は武力で押しつけられた。
840年に父帝が没すると、ルートヴィヒは異母弟のシャルル2世(禿頭王)と手を結び、王国のすべてを手に入れようとした兄ロタール1世に対抗した。841年のフォントノワの戦いで両者は勝利し、842年にはストラスブールの誓いで同盟を固めた。ルートヴィヒは誓いをゲルマン語で、シャルルはロマンス語で述べたという。843年のヴェルダン条約でライン川やアーレ川以東の地を得て東フランク王国を築いた。これが後のドイツの起源とされる。三兄弟は844年のティオンヴィル、847年、851年のメルセンで会談を重ね、ノルマン人の侵入に備えて「平和と和合」「助力と助言」を確認した。
869年、甥でロタリンギア王のロタール2世が死んだが、そのときルートヴィヒは全身の麻痺を伴う病で動けず、同年にシャルル2世がロタリンギア王として戴冠した。しかし翌870年、ルートヴィヒは自らの相続権を主張し、メルセン条約でシャルル2世とその遺領を分け、アーヘンとメッツを含む東部を得た。統治の拠点となったのはフランクフルトとレーゲンスブルクで、記録に残る滞在はフランクフルトが49回、レーゲンスブルクが34回にのぼる。国王の発給した文書は172通しか残らず、居所の詳しい姿はたどりにくい。フランクフルトでは息子たちへの分割が定められ、息子たちの反乱も収まったという。
875年、自らの死後の領土を三人の息子に分ける決定を下した。長男カールマンはバイエルン、次男ルートヴィヒ3世はフランケン、テューリンゲン、ザクセン、三男カール3世はアレマニア(シュヴァーベン)の副王となった。翌876年、フランクフルトで73歳で亡くなり、ロルシュ修道院に葬られた。領地はその決定どおり三人の息子が分割して継承した。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート2世 (オセール伯) (876年)
- コツェリ (876年)
- Heiric of Auxerre (876年)
- Domagoj of Croatia (876年没)
- エンマ・フォン・アルトドルフ (876年没)
同じ地域に関係する人物
- コールリ・スタルテ (1947年没)
- フリードリヒ・アウグスト (ナッサウ公) (1816年没)
- フランツ・アプト (1885年没)
- マグダレーナ・フォン・ブランデンブルク (1582-1616) (1616年没)
- ヘルマン・フォン・イーエリング (1930年没)