伝記
テオフィル・ゴーティエは、1811年8月30日に、現在のオート=ピレネー県の県都タルブで生まれたフランスの詩人、小説家、劇作家である。日本ではゴーチエとも表記される。父の転勤により3歳からパリで育った。はじめは画家を志したが、中学の上級生だったジェラール・ド・ネルヴァルの影響で詩作にも励むようになり、学生時代にネルヴァルの紹介でヴィクトル・ユーゴーと出会って、ロマン派の詩人として出発した。いわゆる青年フランス派に属し、1830年の「エルナニ合戦」では、ロマン派の先頭に立って活躍している。当時フランス語に訳されたホフマンの作品に影響を受け、愛と死をテーマにした幻想的な作品を多く書いた。1831年の『コーヒー沸かし』や『アルベルトゥス』、1832年の『オニュフリウス』、1835年の『モーパン嬢』などが、この時期の作品である。
やがて、当時のロマン主義者たちの並はずれた自我の誇示や感情の吐露に反発し、没個性的で正確な描写を試みるようになった。個人的な感情を外界の冷静な描写へ流し込む姿勢は、彼をロマン主義から脱させた。政府による出版物への弾圧のため、評論などが掲載禁止になったこともあり、小説『モーパン嬢』の序文では、ロマン主義の社会有用説を痛烈に批判している。画家を目指した過去から、感情の美よりも外形の美に心をひかれ、「芸術のための芸術」を主張した。形態と色彩と光沢の美に憧れ、画家や彫刻家が絵筆とのみで表そうとする美を、詩人としてペンで表そうとしたのである。ここから、のちに高踏派と呼ばれる思想が形づくられていった。
ロマンティック・バレエのために、いくつかの台本も書いており、カルロッタ・グリジが最初に踊ったことで知られる『ジゼル』(1841年)が有名である。グリジは彼が生涯で一番愛した女性だったが、彼女がそれを受け入れることはなく、彼はグリジの妹で歌手のエルネスティーヌと結婚し、2人の娘をもうけた。娘の一人も作家で、その美貌で知られた。明るく楽天的な性質だったとされる一方、たいへんな迷信家だったとも言われ、晩年の幻想的な作品である『アヴァタール』『邪眼』『スピリット』などにはその傾向が現れ、スウェーデンボルグの影響も認められる。ほかに『スペイン紀行』(1843年)、詩集『七宝とカメオ』(1852年)、『ミイラ物語』(1858年)、『ロシア紀行』(1867年)などを残した。
1863年には、大半を若いころに執筆していた『キャピテン・フラカス』が大きな成功を収めた。1865年にマティルド・ボナパルトのサロンに招かれたのをきっかけに、皇帝ナポレオン3世の宮廷へつながる足がかりを得た。シャルル・ボードレールは『悪の華』の巻頭に、「十全無瑕の詩人にして完璧なるフランス文学の魔術師テオフィル・ゴーチエ氏に」という献辞を記した。ゴーティエ自身もボードレールの死後に追悼文と作家論を書き、これは新版『悪の華』の序文となった。若き日のラフカディオ・ハーンも彼を愛読し、英訳も行っている。詩にはショーソン、デュパルク、フォーレらが曲を付け、とくにベルリオーズの「夏の夜」が知られる。1860年代にパリの都市計画が進み、古い町並みが壊されたとき、「これじゃフィラデルフィアだ、パリじゃない」と呪詛の言葉を吐いたといわれる。1872年10月23日、長年苦しんだ心臓病によりパリで没し、モンマルトル墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- フレデリク・カイセル (1872年没)
- F. D. モーリス (1872年没)
- アンデシュ・サンデー・エルステッド (生物学者) (1872年没)
- ヘンリー・ハレック (1872年没)
- フェリックス・アルシメード・プーシェ (1872年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・リクール (2005年没)
- エマニュエル・ドゥ・マルトンヌ (1955年没)
- ヴィクトリーヌ・ムーラン (1927年没)
- アンリ・リトルフ (1891年没)
- ワシリー・カンディンスキー (1944年没)