HISTORICAL PERSON · 1944年没

ワシリー・カンディンスキー

ロシア出身の画家・美術理論家で、一般に抽象絵画の創始者とされる。ミュンヘンで学び、のちドイツとフランスの国籍を取得した。

生涯
1944年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / ヌイイ=シュル=セーヌ)
出生地
ロシア連邦(モスクワ)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

ワシリー・カンディンスキーは、1866年12月4日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では12月16日)にモスクワで生まれたロシア出身の画家・美術理論家で、一般に抽象絵画の創始者とされる。中流上層の家に生まれ、母はモスクワの出身、父はモンゴル国境に近いシベリアの町キャフタ出身の茶商人だった。父方の祖母はモンゴルの貴族だったという。1871年に一家はオデッサに移り、子ども時代の多くをそこで過ごした。両親の離婚後は父と暮らし、叔母にも世話をされた。母方の祖母はドイツ人で、ドイツ語で話しかけたという。オデッサではピアノとチェロを習った。

1886年にモスクワ大学で法律と政治経済を学び始め、民族学も修めた。1892年には従姉妹のアンナ・チェミャーキナと結婚し、1904年まで暮らした。1893年には法学部の助教授となり、1896年にはタルトゥ大学から教授の地位を提示されたが、絵に専念するため断った。この決断には、1895年にモスクワで見たモネらの印象派の展覧会と、ワーグナーの歌劇『ローエングリン』の上演が影響したとされる。

1896年にミュンヘンへ移り、まず画家アントン・アジュベの私塾で学び、1900年に美術アカデミーに入学を許された。象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事したが、シュトゥックは彼の絵の色が明るすぎると考え、1年間灰色の階調だけで描かせた。1901年にはファランクスというグループを結成し、フランスの前衛をミュンヘンに紹介しようとして、自ら学校も開いて教えた。1902年にベルリン分離派展に出品し、最初の木版画も制作する。1903年から1904年にかけてイタリアやオランダなどを旅し、1904年にはパリのサロン・ドートンヌにも出品した。1903年から、若い画家ガブリエレ・ミュンターと結ばれ、5年間ともにヨーロッパを旅して制作し、のちにバイエルンのムルナウに落ち着いた。

1909年、新ミュンヘン美術家協会の会長となったが、急進的な方針は伝統的な美術観とあわず、1911年にフランツ・マルクとともに脱退して「青騎士」を結成した。1910年には最初の抽象画を描き、絵画表現の歴史に新たな一歩を記した。『コンポジション』のシリーズは、この最初のドイツ滞在期に生まれた。ロシア革命後の1918年にモスクワへ戻り、前衛芸術をレーニンが「革命的」と認めた当時のソ連で、政治委員などを務めた。しかしスターリンの台頭で前衛芸術が軽んじられるようになり、1921年に再びドイツへ向かった。1922年からバウハウスで教え、1933年にナチスがバウハウスを閉鎖するまで勤めた。その後はフランスに移り、1939年にフランス国籍を取得している。

ナチス占領下のフランスでは作品の展示や論評を禁じられるなど不遇のまま、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで、1944年12月13日に亡くなった。アメリカへの亡命の誘いは断り続けていたという。1967年に未亡人のニーナが、晩年の彼を支えたことでレジオンドヌール勲章を受け、完全に復権した。モンドリアンやマレーヴィチとともに、抽象絵画の先駆者に位置づけられ、『芸術における精神的なもの』や『点と線から面へ』などの著作を残した美術理論家でもある。

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