伝記
ウィリアム・ヘンリー・スワードは、1801年5月16日にニューヨーク州オレンジ郡のフロリダ村で生まれた政治家である。ニューヨーク州知事と合衆国上院議員を務め、リンカーンとアンドリュー・ジョンソンの二人の大統領のもとで国務長官を務めた。父サミュエルと母メアリーのもとで育ち、ユニオン・カレッジで法学を学んで、1820年に優秀な成績で卒業した。1824年10月20日にフランシス・アデライン・ミラーと結婚し、5人の子が生まれた。若いころから奴隷制に激しく反対し、その見解はジョージア州で働いたときに目撃した奴隷制の現実によって一部形づくられたという。オーバーンで義父の法律実務に加わったのち、29歳でホイッグ党からニューヨーク州上院に立候補して当選し、政治家の道に入った。1838年にはニューヨーク州知事に選ばれて1842年まで2期を務め、刑務所の改善や教育費の増額、移民のための学校など進歩的な政策を進めた。
1846年には、アフリカ系アメリカ人が殺人で告発された二つの事件の弁護を引き受け、地元の激しい論争の渦中に立った。被告はいずれも精神を病み、刑務所で虐待を受けていたとされ、彼は刑務所と精神障害者の待遇の改善に長く取り組んできた立場から、精神疾患を理由とする弁護で刑を免れさせようとした。しかし二人とも有罪となり、一人は絞首刑に、もう一人は彼が抗議を続けるうちに獄中で死んだ。
1849年に上院議員に当選した彼は、反奴隷制の指導者として頭角を現した。憲法よりも高次の法があると信じ、奴隷制は道徳的に誤りだと主張し、逃亡奴隷法に反対した。1850年協定には反対票を投じ、奴隷制が廃止されなければ内戦になると演説し、以後10年間この見解を保った。ホイッグ党の衰退後、1855年に共和党に加わり再び上院議員に選ばれたが、意見が中道寄りになって急進派とは疎遠になり、1856年の大統領候補の指名ではフレモントに敗れた。1860年の指名も期待されたが、急進的な過去を恐れる代議員が多く、リンカーンが指名されると、彼は忠実に支持して西部への遊説にも出た。
1861年に国務長官となり、1869年までその職にあった。アメリカは西へ拡大すべきだと主張し、アラスカの購入の交渉に尽力して、1867年3月30日にロシアから720万ドルで広大な土地を買った。大衆は「スワードの愚行」や「スワードの冷蔵庫」などと嘲ったが、今日のアラスカ州では3月の最後の月曜日を「スワードの日」として祝っている。1865年4月14日、ブースがリンカーンを撃ったのと同じ夜に、仲間のルイス・パウエルが彼の邸に押し入った。馬車の事故で顎に添え木を着けていた彼は、顔や首を刺されたが命は取り留めた。長男フレデリックも重傷を負い、妻は6月に、娘ファニーは翌年に亡くなった。パウエルは7月7日に処刑された。
グラントの就任で国務長官を辞したのち、1870年7月から14か月余りで世界を一周し、日本にも寄って、10月9日に明治天皇に謁見した。1872年10月10日にオーバーンの自宅で亡くなり、最期の言葉は子供たちへの「互いに愛せよ」であった。墓碑には「彼は誠実だった」と記されている。遺骸は妻や子供たちとともにオーバーンの墓地に葬られた。息子フレデリックが3巻の回想録を編集し、アラスカのスワード町やスワード半島など、各地にその名にちなむ地名が残る。
同じ年に亡くなった人物
- 河上彦斎 (1872年没)
- サミュエル・モールス (1872年没)
- ジャック・バビネ (1872年没)
- ロバート・ワイト (1872年没)
- カール15世 (スウェーデン王) (1872年没)
同じ地域に関係する人物
- アート・ブレイキー (1990年没)
- マーシャル・バーマン (2013年没)
- ジョン・ホワイト・アレクサンダー (1915年没)
- イヴリン・ベレジン (2018年没)
- ローレンス・コールバーグ (1987年没)