HISTORICAL PERSON · 1872年没

サミュエル・モールス

アメリカの画家・発明家。イェール大学を卒業後、イングランドで王立芸術院に入って絵画を学び、ジョン・アダムズの肖像画などを描いた。モールス電信機を発明し、モールス符号に名を残した。

生涯
1872年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / マンハッタン区)
出生地
アメリカ合衆国(チャールズタウン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

サミュエル・フィンリー・ブリース・モールスは、1791年4月27日にマサチューセッツ州チャールズタウンで生まれたアメリカの画家・発明家である。モールス電信機を発明し、モールス符号に名を残した。父はイギリス移民の牧師で「アメリカ地理学の父」と称されるジェディディア・モールス、母はアン・フィンリー・ブリースだった。父はカルヴァン主義の著名な伝道師で連邦党の支持者であり、ピューリタン的な伝統の保持を望んで、長男にカルヴァン主義の道徳や慣習を教え込んだ。フィリップス・アカデミーで学んだのちイェール大学に進み、宗教哲学や数学を学ぶとともに、ベンジャミン・シリマンらの電気に関する講義も聴いた。絵の才能を発揮し、1810年に卒業した。

彼が描いた『巡礼者の上陸』は、険しい顔で粗末な衣服を着た人々を描いて、カルヴァン主義的な信念を表していた。この作品が画家ワシントン・オールストンの目に留まり、1811年7月、オールストンとともにイングランドへ向けて出航した。ロンドンでは、オールストンから絵画技法を徹底的に教え込まれ、同年末に王立芸術院への入学を許された。ミケランジェロやラファエロの作品を観察し、人体の写生と解剖学を学んで、初期の傑作とされる『死にゆくヘラクレス』を完成させた。米英戦争が起きると、両親宛の手紙は反連邦主義的な色合いを濃くした。1815年8月21日にイングランドを発ってアメリカへ戻り、画家として活動を始め、1816年に元大統領ジョン・アダムズの肖像画を描いた。1819年の経済恐慌で依頼が減り、父は30年務めた牧師の職を辞任に追い込まれた。大作『下院』は夜の情景にしたため画面が暗く、展示でも人気にならなかった。1825年にはニューヨーク市の依頼でラファイエット侯爵の肖像画を描き、同年にナショナル・アカデミー・オブ・デザインを設立して、1826年から1842年まで初代所長を務めた。1830年から1832年にはヨーロッパを巡り、ルーヴルの名画38点を一枚のキャンバスに模写した『ルーヴルのギャラリー』を描き始めた。

1825年、ワシントンでラファイエットの肖像を描いている最中に、父から「妻危篤」の知らせが届き、すぐニューヘイブンへ向かったが、着いたときにはすでに埋葬が済んでいた。この出来事に傷つき、高速な長距離通信手段の研究を始めた。1832年、大西洋を渡る船の中で電磁気学に詳しいジャクソンと出会い、電磁石の実験を見て、導線の一方で電流を断続させれば他端の磁気が変化し、信号を送れると考えた。電信の着想を発展させるため、『ルーヴルのギャラリー』は脇に置かれた。数百ヤード以上では信号が弱まる問題には、ニューヨーク大学のレナード・ゲールの助けを得て、途中に継電器を置いて16キロ以上の伝送に成功した。1838年1月11日にはヴェイル家の鉄工所で公開実験に成功した。最初のメッセージは「辛抱強く待つ者は損をしない」という意味の文だった。連邦政府の支援は得られず、渡欧してクックとホイートストンがすでに電信を商業化していたことを知った。1842年12月に議事堂で実験を行い、1843年に議会はワシントンとボルチモアを結ぶ約61キロの電信線に3万ドルの予算を承認した。1844年5月24日の正式開通では、最初の電報として聖書の一節「神は何をなし給うたか」を送った。この言葉を選んだのは特許商標庁長官エルズワースの娘である。1872年4月2日に没した。一方で、奴隷制の確立を支持し、反カトリックと反移民の運動を支援したともされる。

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