伝記
ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファールは、840年に生まれ879年に没した、イラン南東部のサッファール朝の建国者である。「サッファール」はアラビア語で銅細工師を意味する。ペルシアの一平民であった彼の台頭はアッバース朝に忌み嫌われ、カリフたちやターヒル家などアラブ世界の貴族は彼を蔑視した。彼のほうもバグダードのアラブ人支配者や貴族的なイランの総督を嫌っていたらしい。
生地は現在のアフガニスタンにあるザランジの東、ボストの西に位置するカルニンという小さな町である。出身家系や一族の経歴はほとんどわかっていない。父のライスは銅細工師で、ヤアクーブは父から職人の技を学んだ。家は貧しく、パンとタマネギしか口にできないこともあったという。貧困とスンナ派とハワーリジュ派の衝突のために一家はザランジへ移ったが、到着前に父を失い、ヤアクーブは銅細工師、弟のアムルはラバ飼いとして生計を立てることになった。やがて彼はイラン世界で任侠の徒を意味するアイヤールとなり、盗賊や街道強盗にも手を染めた。11世紀の歴史家ガルディーズィーは、彼を人々に敬慕され、どんな職に就いても同業者の長になるアイヤールの理想像として記している。その勇気と手腕はスィースターンの知事サリー・イブン・ナスルに見込まれ、軍の指揮を任された。
サリーはハワーリジュ派の討伐を名目にアッバース朝から独立した政権を築き、ターヒル朝の攻撃を受けていた。ヤアクーブもターヒル朝との戦いに加わり、ハワーリジュ派と戦う現地のスンナ派から支持を得た。861年4月から自ら「スィースターンのアミール」を名乗り、864年にはかつての主人サリーを討って莫大な戦利品を得た。865年にはハワーリジュ派の指導者アンマール・ブン・ヤーセルを殺して決定的な勝利を収めた。同じ865年にはザーブリスターンとカーブルを占領し、仏教寺院を破壊して、象や仏像、偶像をバグダードへ送った。867年にはヘラート、ケルマーン、シーラーズが支配下に入り、870年にはホラーサーン全土を押さえた。ある戦闘では深手を負い、20日間、管を通してしか食事をとれなかったという。
873年にはターヒル朝の本拠ニーシャープールを制圧したが、これがカリフとの対立を招いた。874年にはタバリスターンに進み、アラヴィー朝の勢力と戦った。カリフ・ムウタミドは彼の関心を西から逸らそうと、バルフ、トハーリスターン、シンドの統治権を与えた。876年にはカリフの弟ムワッファクから、ホラーサーンなどの統治権とバグダードの警察長官職を授けると告げられた。ヤアクーブはカリフとの面会を求めたが実現せず、権限も承認されなかったため、ファールスを抜けてバグダードへ進軍した。しかし同年の戦いでアッバース朝軍に敗れ、イラクから退いた。
879年6月5日、ジュンディーシャープールで病没した。疝痛を患っていたが、治療を拒んでいたという。跡は弟のアムルが継いだ。初期の遠征の動機は定かでなく、信仰の戦士としてスンナ派の教えを広めるため、ペルシア人の誇りからサーサーン朝の復興を図ったため、あるいは個人的な欲求のためなどの説がある。勝利の宴で廷臣がアラビア語で演説すると、これを遮り、主君に分からない言葉を使う理由を問うたという故事が伝わる。彼のもとでペルシア語は公用語とされ、その後のイランにおけるペルシア語復権の端緒を開いたとされる。イランでは民族的英雄として人気が高く、金持ちから盗んで貧しい人を助ける義賊として民間伝承にも語られる。
同じ年に亡くなった人物
- ボードゥアン1世 (フランドル伯) (879年没)
- ルイ2世 (西フランク王) (879年没)
- リューリク (879年没)
- Zdeslav of Croatia (879年没)
同じ地域に関係する人物
- カラノス (バラモン僧) (紀元前323年没)
- イナロス (紀元前500)
- Abdallah Ibn-Ahmad Nasafi (1310年没)
- シシュガンビス (紀元前323年没)
- マニ (預言者) (277年没)