伝記
リューリクは、862年にラドガ(現在のロシア連邦、スタラヤ・ラドガの辺り)を支配し、ノヴゴロドを建設したとされる、ルーシの最初の首長である。830年ごろに生まれ、879年に没したとされるが、半ば伝説の人物であり、生涯についてはほとんど情報がない。後世に同名の君主が現れたため、リューリク1世とも呼ばれる。名は古ノルド語で「有名な支配者」の意の語に由来するとされ、英語の名前ロデリクと関係がある。その子孫は、キエフ・ルーシから16世紀のロシア・ツァーリ国に至るまで、公、大公、ツァーリとして君臨し、この王統をリューリク朝と呼ぶ。
彼に関する唯一の記録は、12世紀に作られたルーシの『原初年代記』にある。現存する写本によれば、互いの争いに疲れたスラヴ人の部族が、自分たちを治める指導者を求めてヴァリャーギ(スカンジナヴィア人)に頼り、リューリクと二人の弟を迎えたという。フランス語版は、その弟たちシネウスとトルヴォルとともに、ノヴゴロドと、スタラヤ・ラドガ、ベロオゼロ、イズボルスクの諸都市を治めるよう、部族の長たちの集会に招かれたと述べる。清廉な外来の統治者を求めたためとされ、当時としては外国の支配者を招くことは珍しくなかったとも説明する。ただし、多くの歴史家がこの筋書きに疑問を示している。年代記の信頼性を疑う研究者は、リューリクが諸都市を征服して自ら君主を称しただけだと考える。編者のネストルが、敗北の屈辱を消すために、征服を招きに応じたものとして描いたという見方もある。ナチス・ドイツの歴史家は、この招きをスラヴ人が自らを治められない証拠として政治的に利用した。これに反発したソ連の歴史家は、リューリクの存在自体を疑い、あるいはスラヴ人の首長とみなした。二人の弟は実の兄弟ではなく戦友だったとする説もある。
出自についても諸説がある。フランス語版は四つの説を挙げる。デンマーク説は、デンマーク王ハーラル・クラクの兄弟か従兄弟で、フリースラントに領地を持ったリューリクと同一人物とする。この人物の名は845年にフリースラントやライン川沿いの町を襲った襲撃の記録に現れ、皇帝からドレスタットを譲られる代わりに洗礼を受けたという。ただし、東バルト方面へ旅した記録はなく、結びつきは主に名前の類似による。スウェーデン説は、ウプサラ王エリクと結びつけ、スノッリ・ストゥルルソンがその東方への旅を記すとする。プロイセン・バルト説は、バルト海沿岸のヴァグリ人の出とみる。フィンランド・スラヴ説は、フィンランドに領地を持つ人物で、有力者ゴストミスルの娘ウミラと結婚したかもしれないとする。
リューリクは879年の死まで政権にとどまった。後継者オレーグは、リューリクの息子イーゴリを連れてキエフに公座を移し、キエフ大公国を築いた。ただし、イーゴリがリューリクの実の子かどうかには論争がある。ルーシの公家の多くはリューリクの血を引くとされ、ロマノフ朝以前の王統をリューリク朝と呼ぶのも、そのためである。北欧の『サガ』には、スウェーデン出身の族長の活動を描く例があるが、リューリクに関するものはない。スタラヤ・ラドガの近くには九世紀の大きな古墳のようなものがあり、地元の人々はそれをリューリクの墓と呼んでいる。
同じ年に亡くなった人物
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- ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール (879年没)
- Zdeslav of Croatia (879年没)
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同じ地域に関係する人物
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- アレクセイ・アラクチェーエフ (1834年没)
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- アナトーリ・リャードフ (1914年没)
- ドミトリー・シェミャーカ (1453年没)