伝記
アンスガルド・ド・ブルゴーニュは、826年に生まれ、880年から882年のあいだに没した西フランクの女性である。ブルグント伯アルドゥアンの娘で、西フランク王ルイ2世(吃音王)の最初の妻にあたる。のちに王となるルイ3世とカルロマン2世の母だが、夫が西フランク王位に就く前に離縁されたため、アキテーヌ王妃ではあっても西フランクの王妃になることはなかった。
862年、アンスガルドは36歳のとき、20歳年下で16歳の少年だったルイ吃音王と秘密のうちに結婚したとされる。結婚の日付は3月1日とも伝えられる。この結婚は王であるシャルル2世禿頭王の意向に反するもので、反対の理由ははっきりしない。アンスガルドをシェルの修道院へ連れ去ったことが関わるとする歴史家もいる。二人のあいだには、ルイ3世(863年生)とカルロマン2世(867年生)の二人の息子のほか、イルドガルトとジゼルなどの娘が生まれたとされ、ジゼルはトロワ伯ロベール1世と結婚した。娘の数と名については、三人の娘としてジゼラ、ヒルデガルド、エルメントルードを挙げる説明もある。
しかしシャルル2世は、跡継ぎとなる息子に、パリ伯アダラールの娘アデライードを正式な妃として迎えるよう求めた。当時のルイ吃音王はアキテーヌ王であった。ルイ吃音王は父の命令に従い、教皇に結婚の無効を求めたとされ、アンスガルドは離縁された。ルイは875年2月にアデライードと再婚した。ただ、この状況は二人の結婚の正統性をあいまいにした。親の承認を得ない結婚は無効とみなされる場合もあった。アンスガルドとの結婚が無効なら息子たちは庶子となるが、有効ならばアデライードとの結婚が無効になり、その子が庶子になるからである。878年、教皇ヨハネス8世がアデライードに戴冠しようとしなかったのは、第二の結婚を無効と見ていたからかもしれないといわれる。教会側もこの新しい結婚の正統性を認めず、教皇はトロワの公会議を訪れた際にもアデライードに戴冠しなかった。
879年4月11日、ルイ吃音王がコンピエーニュで死去した。ポワティエ伯とル・マン伯への討伐遠征を準備している最中だった。王妃アデライードには娘が一人しかおらず、身ごもっていた子が男児かどうかもわからなかった。アンスガルドはこの機会を生かし、自身と息子たちの地位を安泰にしようとして、二人の息子を共同で西フランク王位に就かせることに成功した。息子たちの即位を支持したランス大司教ヒンクマールには、離縁の正統性をもう一度審議するよう求めた。9月、ルイ3世とカルロマン2世は、サンス大司教アンセギスによってフェリエール・アン・ガティネの修道院教会で戴冠した。
ところが、同じ年の9月17日にアデライードが男児を産んだ。のちのシャルル3世(単純王)である。これで息子たちの地位の正統性が疑われたため、アンスガルドと息子たちはアデライードを、夫の存命中に不貞を働いたとして非難した。この出来事ののち、アンスガルドは歴史の表舞台から姿を消す。まもなく亡くなったが、没年を確実に示す記録はない。息子たちも子孫を残さずに相次いで亡くなった。ルイ3世は882年、カルロマン2世は884年に没している。二人はともに西フランク王であったが、生年と没年から見ると、ルイ3世は19歳前後で亡くなったことになる。その後は長く困難な過程を経て、アデライードの子がシャルル3世として唯一の正統な後継者と認められた。
同じ年に亡くなった人物
- Fatima al-Fihriya (880年)
- カールマン (東フランク王) (880年没)
- 在原業平 (880年没)
- ブルン (ザクセン公) (880年没)
- ベルナール・ド・ゴティ (880年)
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