伝記
ヴァシル・レフスキは、1837年7月にオスマン帝国の統治下にあった現在のブルガリアのカルロヴォで生まれた革命家である。出生時の名はヴァシル・イヴァノフ・クンチェフといい、レフスキという名は、ライオンにちなんだ愛称に由来する。のちに「自由の使徒」と称され、ブルガリアの国民的英雄とされている。名は母方の叔父で大修道院長のヴァシルにあやかったものである。両親のイヴァン・クンチェフとギナは、聖職者と職人の家系の出で、新たに台頭しつつあったブルガリアの中産階級に属していた。父は地元で名のある職人だったが、生計に苦労して1844年に亡くなった。ヴァシルには弟が二人と姉が一人おり、別の姉妹は幼くして亡くなっている。
同志のパナヨト・ヒトヴは、のちに成人した彼を、中背で身のこなしが機敏でひきしまった体つきをし、灰青色の目に金髪、小さな口ひげがあったと描写している。酒もたばこもたしなまなかったという。カルロヴォの学校で学んだのち、職人のもとで徒弟として仕立てを学んだ。1855年に叔父がヒランダル修道院の使節として滞在していたスタラ・ザゴラへ連れて行かれ、学校に通いながら叔父の下働きもした。1858年12月7日にソポト修道院で正教会の修道士となり、イグナティイという修道名を受け、翌1859年に輔祭に昇進した。これにちなむ「輔祭」というあだ名も、彼にはあった。
1862年の春、ゲオルギ・サヴァ・ラコフスキの革命思想に触発され、修道士の務めを捨ててセルビアの首都ベオグラードに向かい、ラコフスキが編成していた第一ブルガリア軍団に志願兵として加わった。この部隊は、オスマン帝国の支配の打倒を目指すブルガリア人の義勇兵や革命の活動家で構成されていた。国外で活動するなかで、レフスキという名を得た。のちに、ブルガリアの地で教師として働きながら自らの考えを広め、国内に根ざした革命組織という構想を練り上げた。これは、国外を拠点とする従来の遊撃隊の戦略に代わる、新しい考え方であった。
1867年、革命を起こすべく内部革命組織を設立し、ブルガリア各地に秘密の地方委員会を設けて、全国的な蜂起を起こそうとした。1871年には、ルーマニアのブルガリア人移民で構成された、同様の目標を持つブルガリア革命中央委員会と協力することで合意した。ブルガリアの解放が現実味を帯びてきた最中の1873年、オスマン当局に拘束された。ロヴェチ近くの宿で捕らえられたとされ、同年2月にソフィアで絞首刑に処された。
彼は解放の先に、民族や宗教の別なく権利が平等なブルガリア共和国を構想していたとされる。ブルガリア人の住むブルガリア、トラキア、マケドニアでは、どの民族であっても権利はブルガリア人と等しい、と語ったと伝えられ、その考えはフランス革命などの自由主義の思想を反映していた。ブルガリアとセルビアには記念碑が建てられ、多くの国の機関が彼の名を冠している。ソフィアにあるヴァシル・レフスキ国立競技場や、サッカークラブのレフスキ・ソフィアは、その名を冠している。2007年のテレビ投票では、史上最も偉大なブルガリア人の首位に選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
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- エドゥアルド・ロサレス (1873年没)
- ユストゥス・フォン・リービッヒ (1873年没)
- アウグステ・フォン・ハラハ (1873年没)
- Sarah Grimke (1873年没)
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