伝記
メトディオスは、9世紀の東ローマ帝国の知識人で、キリスト教の聖職者、モラヴィアの主教である。815年に生まれ、885年4月6日に没した。弟は「キリル文字」の名で知られるキュリロスで、二人はスラヴ人にキリスト教を伝えたことから「スラヴの使徒」と称され、スラヴ圏の教会で篤く崇敬されている。
兄弟は東ローマ帝国のテサロニケに生まれた。軍人の家庭で、父はレオン、母はマリアという名であったとされる。生年は815年から820年の間ともいわれ、本名はミカエルで、メトディオスの名は修道院で修道士となったときに与えられたという。父を亡くしたとき、有力な大臣テオクティストスが兄弟の保護者となった。弟のキュリロスは大学で教え、860年ごろには皇帝ミカエル3世と総主教フォティオスの命でハザール人への伝道に赴いた。このときメトディオスが同行したというのは後世の創作かもしれない。帰国後、メトディオスはすでに帝国の政治や行政で重要な人物になっており、修道院長も務めていた。
転機は862年に訪れた。モラヴィア王国のラスチスラフが、東ローマ帝国に伝道師の派遣を求めてきたのである。ラスチスラフはフランク王国の後ろ盾で即位したが、その影響力から脱したいと考え、ザルツブルク大司教から送られた宣教師を追放して、コンスタンティノポリスに接近した。帝国は文献学者で神学者の「哲学者」コンスタンティノス、修道名キュリロスと、その兄メトディオスを派遣した。二人は現地語での伝道が必要だと強く信じ、聖書と典礼書の翻訳に取り組んだ。当時スラヴ語には文字がなかったため、キュリロスがギリシア文字に基づいてグラゴール文字を作った。翻訳はおそらく新約聖書と詩篇から始まり、旧約聖書のほかの部分へと進んだが、どの箇所をどちらが担当したかは正確にはわからない。
ザルツブルク大司教配下の宣教師との争いは続いた。彼らはラテン語かギリシア語だけが典礼言語であるべきだとして、翻訳を典礼を汚すものと非難した。その調停のため、二人は867年にローマへ招かれ、868年に弟子を伴って到着した。教皇アドリアヌス2世以下の人々は二人を歓待し、その学識と温雅さに感銘を受けた。教皇は二人の立場を支持して教会スラヴ語による典礼を公式に認め、モラヴィア伝道も認めた。ローマ滞在中の869年2月、キュリロスは病没した。
メトディオスは弟子たちと帰り、未訳の典礼書の翻訳を進めて伝道を続けた。だがラスチスラフが甥に王位を追われたためモラヴィアには戻らず、パンノニアで活動した。ここもザルツブルク大司教の管轄地で、ドイツ人宣教師との緊張が生じた。メトディオスはローマに支援を求め、シルミウム大司教に任じられて地位を確立した。ヨハネス8世の879年の手紙によれば「モラヴィア・パンノニア・セルビアの大司教」とされた。それでもラテン典礼を奉じるドイツ系聖職者や東フランク王国との対立は続き、2年半投獄されたこともあった。フランク王国が信条に加えた「フィリオクェ」を、ギリシア人の彼は受け入れられなかった。882年にヨハネス8世が死ぬと地位は極めて不安定になり、皇帝の保護を求めてコンスタンティノポリスへ赴いたと伝えられる。885年にメトディオスが死ぬと、後継者に指名したゴラヅは教皇ステファヌス5世に承認されず、弟子たちはモラヴィアから追放された。以後モラヴィアはラテン教会に属し、弟子たちは隣国ブルガリアに移って宣教を続けた。その中にオフリドのクリメントがいる。兄弟は早くから正教会の聖人とされ、19世紀にはカトリックの聖人にも列せられた。
同じ年に亡くなった人物
- リウトガルト・フォン・ザクセン (東フランク王妃) (885年没)
- ハドリアヌス3世 (ローマ教皇) (885年没)
- ディエゴ・ロドリゲス・ポルセロス (885年)
- ゴドフリード (885年)
同じ地域に関係する人物
- ルドビク・ダネク (1998年没)
- ミヒャエル・トーネット (1871年没)
- ハインリヒ・クラーマー (1505年没)
- カレル・ゼマン (1989年没)
- フリードリヒ・フォン・ベルヒトルト (1875年没)