伝記
ハドリアヌス3世は、9世紀後半のローマ教皇で、歴代の第109代にあたる。在位は884年5月17日から885年に世を去るまでの1年余りで、短い治世で、その間にイタリアの人々の暮らしを助けようとしたとされる。ローマの生まれだが、生年は分かっていない。ジャン・マビヨンは出生名を「アガピトゥス」としたが、レジナルド・プールは、これはマリヌス1世の後任と、その約100年後のアガペトゥス2世を取り違えたものだと考えている。一方、就任の際に名を改めた最初の教皇であり、もとの名はアガピトゥスだったともいわれる。このように説が分かれ、名の由来は確定していない。
ローマの家柄はトゥスクルム伯家と関わりがある可能性があるという。彼はのちに教皇セルギウス3世(在位904年〜911年)となる、トゥスクルム伯セルギウスの兄ともされ、名門の出であった可能性を示唆している。ただし、家系などは不明ともいわれる。先代のマリヌス1世が884年5月15日に死去したため、その2日後の5月17日に教皇に選ばれた。就任は、飢饉と戦争が続くイタリアの混乱期にあたっていた。彼は、苦しむ人々の窮状を和らげようと、イタリアで力を尽くしたという。ローマ市民が飢饉のときに助けられたことが、後世の崇敬の理由と考えられているが、聖人として敬われるようになった理由はほとんど知られていない。
教皇としての事績としては、先代のマリヌス1世の路線を受け継ぎ、コンスタンティノープル総主教フォティオス1世の破門を改めて宣告したことが挙げられる。また、ブリンディジとオリアの司教テオドシウスを、信仰とフィリオクェに関する教会会議の書簡を携えてコンスタンティノープルへ派遣した。さらに、スペインのキリスト教徒が、ムスリムの支配下でもキリスト教徒の支配下でも、ユダヤ人と親しくしすぎていると非難する書簡を書いたことでも知られる。カロリング朝の皇帝との関係では、教皇の叙階に皇帝の同意は必要ないとする 勅令を出したとされるが、それでも皇帝カール3世(肥満王)の求めに応じて、ヴォルムスの帝国議会へ向かった。議会の目的は、帝位の継承を決めることと、伸びるサラセン人の力を協議することであった。
しかし、ライン地方のヴォルムスへの旅に出てまもなく、モデナ近郊のサン・チェザーリオ・スル・パナーロまで来たところで、急な病に襲われ、885年に亡くなった。現在のヴィアッツァ通りにあたる森に着いた時に病に倒れたという。没月は7月とも9月ともいわれる。彼は暴力的な行為が目立つ教皇であったとされ、モデナで側近らに暗殺されたともいわれるが、確かなことは分からない。遺体はノナントラ修道院に運ばれて埋葬され、その聖遺物は高い祭壇の近くにあるという。墓はすぐに人気のある巡礼地となり、ノナントラのサン・シルヴェストロ教会の入口を飾る浮き彫りは、その死と埋葬を記念している。死後まもなく聖人とされたが、その列聖には疑問が持たれ、1891年に教皇レオ13世が崇敬を公式に認めるまで確認されなかった。祝日は7月8日で、正教会では7月8日と30日とされる。後継者はステファヌス5世(6世とも数える)であった。
同じ年に亡くなった人物
- メトディオス (スラヴの(亜)使徒) (885年没)
- リウトガルト・フォン・ザクセン (東フランク王妃) (885年没)
- ゴドフリード (885年)
- ディエゴ・ロドリゲス・ポルセロス (885年)
同じ地域に関係する人物
- ルチアーノ・パヴァロッティ (2007年没)
- ヴィットーリア・ファルネーゼ (1618-1649) (1649年没)
- エウジェニオ・カステロッティ (1957年没)
- シャルロッテ・フェリーツィタス・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク (1710年没)
- アントニオ・マリア・ボノンチーニ (1726年没)