HISTORICAL PERSON · 888年没

ボジヴォイ1世

史料に確認できる最初のボヘミア公で、プシェミスル朝の祖。大モラヴィアに従属しながら、872年にスヴァトプルクを支援して東フランク軍を破り、のちに妻ルドミラと共にメトディオスから洗礼を受けたとされる。

生涯
888年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ / チェヒ国)
出生地
チェヒ国
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

ボジヴォイ1世(ボジヴォイ・プシェミスロヴツ)は、歴史上確認できる最初のボヘミア公であり、プシェミスル家の祖とされる人物である。生年は852年から855年ごろ、没年は889年ごろ(889年から891年の間とも)とされ、在位は870年ごろに始まったと考えられている。ただし当時のボヘミアは大モラヴィアに従属しており、同時代のフランク王国の年代記『フルダ年代記』が872年に挙げる西スラヴの諸侯のなかのゴリウェイという名が、ボジヴォイに当たる可能性が指摘されている。

十二世紀初めのコスマスの『ボヘミア年代記』は、彼を伝説上のボヘミア公ホスティヴィートの子とし、女王リブシェとその夫である農夫プシェミスルの子孫と位置づける。しかし系譜は史家のあいだで確定しておらず、大モラヴィアのモイミール家と血縁があった可能性や、もともと大モラヴィアの出身だったとする説もある。子のスピティフニェフの遺骨のDNA調査からは、一族のY染色体ハプログループはR1bだったことが示唆されている。ボジヴォイは当初、現在のプラハの北西にある城塞レヴィー・フラデツに住んでいた。

中央ボヘミアに勢力を持つプシェミスル家の長として、867年ごろに自らを「クニーゼ(公)」と称したとされる。ラテン語ではドゥクスにあたる称号で、のちにドイツの学者によって「公」と訳された。ドイツの部族大公が上位の王や皇帝の代理だったのに対し、チェコのドゥクスは主権を持つ君主を意味したという。872年ごろには、上位の支配者であるモラヴィア王スヴァトプルク1世から公として認められ、スヴァトプルクはテッサロニキのメトディオス司教を派遣してボヘミアのキリスト教化を始めさせた。同じ872年、ボジヴォイはスヴァトプルクが東フランク王ルートヴィヒ2世と争った際にこれを軍事的に支え、南ボヘミアでフランク軍を破った。

874年ごろ、のちに聖人となるルドミラと結婚した。夫妻にはスピティフニェフとヴラティスラフの二人の息子が知られ、どちらも父のあとを継いで公となった。(六人の子が生まれたとする記述もある。)夫妻はメトディオスから洗礼を受けたとされ、時期は883年ごろとも873年ごろともいわれ、洗礼が実際にあったかどうかを疑う見方もある。ボジヴォイは熱心な伝道者となったが、この宗教は領民のあいだには根づかなかった。キリスト教を広めようとする熱意が貴族の反乱を招いたとする説明もある。883年から884年にかけて、同じプシェミスル家の親族ストイミールを担ぐ反乱で退位に追い込まれ、885年に上位のスヴァトプルクの支援によってようやく復位した。

プラハ城の礎は、ボジヴォイ自身か、おそらくは息子のスピティフニェフがフラッチャニの丘へ居所を移したときに築かれたとされる。最初のキリスト教会は聖クレメンスに捧げられ、復位後にはもう一つ、聖母マリアに捧げた教会を建てたと伝えられる。889年ごろに彼が亡くなったとき、息子たちはまだ幼く、スヴァトプルクが東フランクの支配者アルヌルフと協定を結び、自らボヘミア公国の統治を引き受けた。のちに妻ルドミラと子のスピティフニェフが独立を回復したという。初期ボヘミアの支配者の例にもれず、ボジヴォイも輪郭のはっきりしない人物で、治世の正確な年代や詳しい事績は確定できないが、いくつかの大きな城塞や宗教施設はこの時代にさかのぼるとされる。

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