伝記
フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーは、1787年10月4日にフランス南部のニームで生まれた政治家・歴史家で、七月王政期の最後の首相である。プロテスタントでブルジョワの家庭に生まれ、父は有力な弁護士だったが、1794年、ギゾーが六歳のとき恐怖政治に巻き込まれてギロチンで処刑された。ギゾーは母とともにニームを追われ、ジュネーヴに避難した。敬虔なカルヴァン派ながら自由主義者だった母の影響を深く受け、ルソーの『エミール』の教育論にならって、大工にもなれるように育てられたという。後年、1848年革命でギゾーがイギリスに逃れたとき、母も同伴してロンドンへ向かい、そこで没した。
1805年に帰国してパリで法律を学び、家庭教師を務めたのち、雑誌に寄稿してパリの文人界に入った。1809年にはシャトーブリアンの著作の評を書き、本人から感謝された。第一帝政期は文学に専念し、1812年にギボンの『ローマ帝国衰亡史』の仏訳を出版した。この仕事が評価されてパリ大学の現代史教授に任命され、名声はいっそう高まった。1814年にナポレオンが失脚すると内務省の秘書長官に任命されたが、翌年の百日天下が始まると辞任した。その後ガンへ移ってルイ18世に謁見し、復古王政を長続きさせるには自由主義政策がよいと述べた。フランスが再び侵攻されようとした時期に国を離れたことは、政敵から「ガンの男」と非難される原因となった。
復古王政期には内務省などの官職を務めたが、1820年にベリー公が殺害されて反動政治が強まると官職を追われ、1822年には大学の講義も停止された。しかしこの時期は、『ヨーロッパ文明史』(1828年)や『フランス文明史』(1830年)など、高名な著作を生んだ時期でもあった。1828年に教授へ復帰し、1830年1月に代議院議員に初当選した。同年7月、シャルル10世が選挙権の縮小を命じる勅令を出すと、ギゾーは抗議文を書いた。ルイ・フィリップ1世を支持して8月に内務大臣となったが、11月に辞任した。1832年に成立したスールト元帥の内閣では公共教育大臣を務め、4年間に国民教育の普及と教育法の改革を進め、フランス史協会も設立した。急進自由主義派の間で不人気になったが、本人は意に介さなかったという。1836年にアカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。
1840年にティエールが外務大臣になると、ギゾーは駐英大使に任命された。ムハンマド・アリーのシリア領有問題でティエールの強硬策に反対して警告を送ったが無視され、7月15日のロンドン条約の締結も知らされなかった。ルイ・フィリップ1世がティエールの求めた軍事準備を拒み、ギゾーを呼び戻して組閣させたことで、危機は解消した。名目上の首相はスールトだったが、実質的にはギゾーが主導した。平和志向でイギリスとの友好を重んじ、1841年にアバディーン伯爵が外務大臣になると英仏間の平和は保たれたが、野党はこれを追従外交だと批判した。
首相としては財政や貿易、軍事には無知で、改革は進まなかった。選挙改革の声にも耳を貸さなかった。1848年2月23日、ルイ・フィリップ1世に内閣継続への疑いを告げられると、ギゾーは即座に辞任した。友人の家に匿われたのち、3月3日にロンドンへ着き、支援金や大学教授職の申し出は断った。翌年に帰国したあとは政界に関わらず、自邸で著述に専念し、1874年9月12日に死去した。政治家としては清廉で、死去したときも貧しかったという。
同じ年に亡くなった人物
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