HISTORICAL PERSON · 2004年没

フランソワーズ・サガン

フランスの小説家、脚本家。デビュー作『悲しみよこんにちは』が1954年に批評家賞を受賞して人気を集めた。筆名はプルーストの小説の登場人物にちなむ。

生涯
2004年没
死亡地
フランス共和国(カルヴァドス県 / エケモヴィル)
出生地
フランス共和国(カルジャク)
出典
世界地図
フランス共和国(カルヴァドス県)

伝記

フランソワーズ・サガンは、本名をフランソワーズ・コワレといい、1935年6月21日、フランス南西部ロット県のフィジャック近郊に生まれた小説家、脚本家である。父は大手電気会社の前身の重役、母は地主というブルジョワ家庭で、動物に囲まれて育ち、愛称は「キキ」であった。一家は第二次世界大戦の間、初めはリヨンに、のちにドーフィネ地方のヴェルコールに疎開した。戦後はパリ17区の自宅に戻った。学校生活になじめず、私立校を3か月足らずで退学になり、寄宿学校に入れられ、さらにグルノーブル近郊のカトリック系の学校を3校転々としたが、そのころは「非常によい子」で過ごしたという。パリに戻った後、2度目の受験でバカロレアに合格し、1952年秋にソルボンヌ大学に入学した。在学中は無関心な学生で卒業せず、このころから処女作『悲しみよこんにちは』を書き始めた。グランゼコールの準備級の試験は不合格に終わっている。書くことができなければ医者になりたかったが、勉学や研究をする勇気はなかっただろう、と後に述べた。

1953年の夏以降、親友フロランス・マルローが母クララ・マルローに原稿を見せたが、ある出版社は目もくれなかった。作家で映画脚本家のコレット・オドリーが結末の書き直しを提案し、出版社3社を紹介してくれたおかげで、1954年1月17日にジュリアール社からの出版が決まった。同年5月、ジャン・ポーラン、ジョルジュ・バタイユ、ロジェ・カイヨワらが選考委員を務める批評家賞を受け、これを機に『悲しみよこんにちは』は売り上げを大きく伸ばした。18歳のころに出版された、父の情事に出会った少女を描くこの作品は、世界的なベストセラーとなった。出版の運びになったと家族との昼食の席で報告すると、父は実名の姓を表紙に使うことに反対した。そこで筆名が必要になり、プルーストの『失われた時を求めて』の「ゲルマントのほう」に出てくるサガン公を連想させる人物の名の響きに魅了されて、「サガン」と名付けた。ジャーナリストのベルナール・フランクは彼女を「文学界のマドモワゼル・シャネル」と呼んだ。

若くして成功し、サン=ジェルマン=デ=プレ界隈で文学者らと交わった。親友フロランス・マルロー、ダンサーのジャック・シャゾット、歌手ジュリエット・グレコらと親しく付き合い、取り巻きに囲まれて過ごした。莫大な収入は服や宝石、原稿など周囲の人に気前よく買い与えて浪費した。アメリカにも旅し、トルーマン・カポーティやエヴァ・ガードナーとしばしば同行し、1957年には自動車事故で重傷を負った。結婚は2度で、ガイ・シェーラーと1958年から60年、ボブ・ウェストホフと1962年から63年にそれぞれ結婚して、どちらとも離婚した。一人息子は写真家のドニである。ジャン=ポール・サルトルと親しく、作品には実存主義の影響があり、1996年まで多数の作品を書き、その多くが映画化された。

後半生のおよそ12年は、預金などを差し押さえられて生活に困り、心身とも薬物中毒の後遺症に苦しんだ。2002年2月の脱税事件「エルフ事件」の影響で多額の罰金と追徴課税を支払うことになり、パリ市内で住まいを転々とした。晩年はノルマンディー地方の別荘にこもり、2004年9月24日、オンフルールの病院で心臓疾患のため69歳で亡くなった。2008年には伝記映画が作られた。

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