HISTORICAL PERSON · 899年没

アルフレッド大王

ウェセックス王(在位871〜899年)。約100年続いたデーン人の侵攻を食い止め、衰えたキリスト教文化を復興し、古英語の読み書きを広めた。英国海軍の父とも称される。

生涯
899年没
死亡地
イギリス連邦(ハンプシャー / ウィンチェスター)
出生地
イギリス連邦(ウォンテージ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ハンプシャー)

伝記

アルフレッド大王は、七王国のひとつウェセックスの王で、在位は871年から899年である。849年、バークシャー地方の王領ウォンティジで、ウェセックス王エゼルウルフとオズブルガの五男として生まれた。853年、幼いうちに父の命でローマへ送られ、教皇レオ4世に謁見し、教皇から塗油と堅信礼を受けたという。855年には父とともに再びローマを訪れ、その帰途に父はシャルル禿頭王の娘ユーディスと再婚している。父の死後、3人の兄が次々と王位に就いたがいずれも短命に終わった。

865年に兄エゼルレッドが即位すると、アルフレッドは副将として公務を担った。867年には義兄のマーシア王ブルグレドの要請で兄とともに出陣し、初陣を飾った。871年のアッシュダウンの戦いで兄王とともに戦って勝利したが、兄はこの戦いの傷が悪化して没し、賢人会の決定でアルフレッドが即位した。以後、約28年にわたり、侵攻してくるデーン人と、おそらくクローン病による痔瘻とされる持病に苦しみながらウェセックスを治めた。

875年にウェセックス勢が初めて海戦に勝利し、翌876年にはスオニッジの海戦でデーン人の戦艦120隻を沈める大勝を得た。しかし878年、居所のチップナムをデーン人に急襲され、天然の要害であるアセルニーに退いた。そこに要塞を築き、召集兵を再編して反撃を準備し、同年、デーン人を破ってウェセックスを奪還した。ウェドモーアの和議で、デーン人の勢力範囲を北部と東部のデーンロウにとどめ、のちのイングランド統一の基礎を築いたとされる。兵役の交代制を導入し、敵の戦術を研究して取り入れた。デーン人の船を参考にした軍艦を造らせ、フリースラントなどから水夫を招いて海軍を創設し、これが「英国海軍の父」と呼ばれる由来である。886年にはロンドンを奪回し、893年以降の交戦もすべて撃退した。

文化面では、ウェールズの学僧アッサーやマーシア出身の学者らを招き、荒廃した学問の復興にあたらせた。宮廷学校を設けて自身の子や貴族の子に教育を施し、自らもラテン語の古典の英訳に携わった。翻訳を指示したとされる書物には、聖グレゴリウスの『司牧者の心得』、オロシウスの歴史書、ベーダの『英国民教会史』、ボエティウスの『哲学の慰め』などがある。『司牧者の心得』の序文はアルフレッド自身の作といわれ、デーン人の侵攻による文化の衰退を嘆いている。さらにアングロサクソン年代記の作成を指示し、法典も編んだ。法典は聖書の抜粋に始まり、ケント、ウェセックス、マーシアの先王の法を参考にしている。王国をシャイアやハンドレッドに分けて地方の裁判を整え、ロンドンの再建や、防衛拠点であるバラの建設にも取り組んだ。

エアルフスウィスとの間には3男3女が生まれた。長男エドワードが王位を継ぎ、娘エセルフリーダは889年にマーシア太守エゼルレッドへ嫁ぎ、のちに「マーシアの貴婦人」と称された。その血統は女系を通じて現在のイギリス王室にもつながるとされる。899年10月26日に没し、死後は聖公会・カトリック教会・正教会で聖人とされている。パンを焦がして叱られる話など、多くの逸話が語り継がれるが、史実と異なるものも多い。

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