伝記
サービト・イブン・クッラは、アッバース朝時代のバグダードで活躍した天文学者・数学者である。正しい名はアブル=ハサン・サービト・イブン・クッラ・イブン・マルワーン・アッ=サービー・アル=ハッラーニーで、ラテン語名はテービトという。生年は826年とも836年ともされ、没日は901年2月18日とも19日ともされる。メソポタミア北部の町ハッラーン(現在のトルコ領)に生まれた。当時のハッラーンはギリシア系文化の中心地で、彼の一族は星辰崇拝を行うサービア教徒の一派に属していた。母語はシリア語で、ギリシア語にも堪能であった。
若いころには両替商をしていたと伝えられるが、この点は、のちに身につけたギリシア科学の広い知識からみて、商いよりも長い学問的な訓練があったはずだとする研究者から疑問も出ている。資料はまた、ハッラーンの同胞と教義をめぐって争ったことも伝える。やがて富裕なバヌー・ムーサー三兄弟の長兄ムハンマド・イブン・ムーサーに言語の才を見込まれ、バグダードに招かれた。そこで三兄弟のもとで数学・天文学・哲学の教育を受け、ギリシアの数学文献の翻訳を助けながら、有力者たちとも交わるようになった。バグダードでは同じハッラーンの出身者を集めた学校も設け、翻訳家を育てた。異教徒の共同体の指導的な地位を築いたとされ、ハッラーンの同信者の擁護者を自任して、カリフにとりなしたと伝えられる。
晩年にはカリフ・ムウタディド(在位892年から902年)の庇護を受けて宮廷の天文学者となり、個人的な友人にもなった。バグダードで没した。息子のシナーンや孫のイブラーヒームも、医学や数学に貢献した。数学、天文学、占星術、魔術、工学、医学、哲学に通じ、医学や哲学の論考も多く著した。生涯に150の著作を書いたとされるが、多くは失われ、現存するのは十数点にとどまる。
翻訳では、アポロニオス、アルキメデス、エウクレイデス、プトレマイオスの著作をギリシア語からアラビア語に訳した。フナイン・イブン・イスハークが訳したエウクレイデスの『原論』を改訂し、その子イスハークが訳したプトレマイオスの『アルマゲスト』を書き直し、プトレマイオスの『地理学』も訳した。正七角形の作図を示したアルキメデスの著作は、原本が失われたが、彼の翻訳が20世紀に発見された。数学では、友愛数の組を求める公式の発見者とされ、代数問題を幾何学的に解くことに最初期に注目し、エウクレイデスの定理で方程式に幾何学上の証明を与えた。ピタゴラスの定理を一般の三角形に拡張し、球面三角法や平行線公準の証明、アルキメデスの放物線の求積法も研究した。
天文学ではプトレマイオス体系の初期の改革者の一人とされ、歳差運動を分点の秤動で説明する説がサービトに帰されるが、この説はすでにテオンが記していたともいう。コペルニクスによれば、恒星年を非常に高い精度で求めた。力学では静力学の創始者の一人とされ、『カラストゥーンの書』が、中世アラビア科学で最も重要な静力学書とされ、腕の重さや長さの違いを考慮した天秤を論じた。この書は12世紀後半にクレモナのゲラルドによってラテン語に訳され、ヨーロッパでも広く読まれた。
同じ年に亡くなった人物
- ハロガランのオフゼア (901年(推定))
- 崔致遠 (901年(推定))
- Antony II of Constantinople (901年)
- アデライード・ド・パリ (901年没)
- Theodora (901年没)
同じ地域に関係する人物
- アーザルミードゥフト (631年没)
- セルジオ・デメロ (2003年没)
- ファイサル2世 (イラク王) (1958年没)
- フナイン・イブン・イスハーク (870年代没)
- アブ・ニダル (2002年没)