伝記
菅原道真は、平安時代の貴族・学者・漢詩人である。承和12年(845年)、参議・菅原是善の三男として生まれ、幼名を阿呼といった。幼いころは健康に恵まれず、大病で命の危機に瀕したが、母が観音に祈願して像の建立を願い、ようやく回復したと伝えられる。一方で詩才は早くから現れ、11歳で作った漢詩「月夜に梅華を見る」は『菅家文草』の巻頭に載り、14歳の七言律詩「朧月独興」は秀句と賞賛されて『和漢朗詠集』に採られた。漢詩の師は、のちに岳父となる島田忠臣であった。
貞観4年(862年)、18歳で文章生に補せられた。この年齢での及第は最も早い部類に入る。貞観9年(867年)には文章得業生となり、貞観12年(870年)に対策(方略試)に「中上」で及第した。元服の年から願文の代作を手がけ、文才はまもなく貴族社会に知れ渡った。藤原基経も度々代筆を依頼した一人で、父の是善を差し置いて道真に頼むこともあった。貞観15年(873年)には政治に関する古今の文書を集めた『治要策苑』の編集を志し、序文まで書いたが、完成を見ず、現在には伝わっていない。貞観13年(871年)に少内記となり、貞観16年(874年)には29歳で従五位下に叙された。同時期の文人官僚と比べても若い叙爵であった。母の没により渤海客使の任を退いたが、のちに内記へ復し、渤海王への勅書を起草している。
貞観19年(877年)に式部少輔、次いで文章博士を兼ね、祖父・清公や父・是善と同じ文人官僚の顕職に就いた。この時期は最も得意の時代と評される。元慶3年(879年)には太皇太后の崩御に際し、令を引いて天皇の服喪の要否を論じた。元慶7年(883年)には対策の出題や評価の基準について三か条を建議している。文筆でも、元慶3年(879年)に撰進された『日本文徳天皇実録』の序文を基経に代わって書き、朔旦冬至を賀する表なども公卿全員に代わって執筆した。元慶8年(884年)、基経の処遇を定めるために太政大臣の職掌が諮問されると、博士の中で最も官位の高い者として第一に意見を奏上した。元慶4年(880年)に父が没すると、祖父以来の私塾である菅家廊下を主宰し、文人社会の中心となった。
仁和2年(886年)、讃岐守に任ぜられて任国へ下向した。道真は地方官が祖業ではなく、他人から左遷と言われることを残念がった。出発前の内宴では、基経に詩の唱和を求められながら、涙にむせんで一言しか発せられなかったという。讃岐では、先に善政を行った安倍興行や藤原保則と親しいことから、その余徳にあやかって良い政治を得たいという長詩「路に白頭翁に遇ふ」を残した。仁和3年(887年)末に一時帰京し、翌年正月に任地へ戻っている。転出の理由には、菅家門人の勢力増大を恐れた学者たちの運動とする説や、太政大臣の職掌を明白に否定した意見が基経らに歓迎されなかったためとする説がある。仁和4年(888年)には阿衡事件が起こり、学界と政界を巻き込む政争となったが、道真はこの時、讃岐にいた。
その後、道真は宇多天皇に重用されて寛平の治を支え、醍醐朝では右大臣にまで上った。しかし左大臣・藤原時平の讒言により大宰府へ大宰員外帥として左遷され、延喜3年(903年)2月25日、現地で没した。これを昌泰の変という。死後は怨霊となり、清涼殿落雷事件などを起こしたとして恐れられ、日本三大怨霊の一人に数えられた。のちに天満天神として神格化され、今日まで「学問の神様」として親しまれている。
同じ年に亡くなった人物
- ベネディクトゥス4世 (ローマ教皇) (903年没)
- テオドラード・ド・トロワ (903年)
- Abdallah II of Ifriqiya (903年)