HISTORICAL PERSON · 903年没

ベネディクトゥス4世 (ローマ教皇)

第117代ローマ教皇で、ローマの貴族の出身。フォルモスス派を支持してフォルモススの名誉回復に努めた。イタリア王ランベルトの急死後は王家の内紛の調停に努めたが失敗し、在位3年余で亡くなった。

生涯
903年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ベネディクトゥス4世は、第117代のローマ教皇で、900年から903年7月まで在位した。生年は不明とされるが、845年にローマで生まれたともいわれる。出身はローマで、貴族の家に生まれ、父はマムマルスという人物であった。経済的に恵まれていたために十分な教育を受けて聖職の道に進み、教皇フォルモススによって司祭に叙階された。当時の歴史家フロドアールは、その生まれの高貴さと惜しみない施しの心を称え、「大」という異名を与えたと伝えられる。

900年1月に先代のヨハネス9世が急死すると、4月までに新教皇に選ばれた。就任日は2月1日ともいわれる。選ばれた時の情勢は、きわめて不利なものであった。前年の899年にはスポレート公でイタリア王・皇帝であったランベルトが亡くなり、皇帝位は空いたままであった。そのうえ、ローマ教会はフォルモススの統治や名誉をめぐって、フォルモスス派と反フォルモスス派に分かれて争っていた。教皇は前者を支持し、フォルモススの名誉回復に努めた。ランベルトの死後にイタリアの王家で内紛が起きたときにも調停を試みたが、失敗に終わった。

教皇としての最も重要な行いは、901年に、ルートヴィヒ盲目王に皇帝の冠を授けたことである。イタリア王ベレンガーリオ1世も帝位を狙っていたが、教皇が選んだのはルートヴィヒであった。北イタリアにはマジャール人が侵入し、南イタリアにはサラセン人が襲来しており、教皇は皇帝の支持を得て、これらに対抗しようとしたとみられる。しかし、軍事的な援助は得られず、教皇とローマは事実上無防備のままであった。しかもルートヴィヒは、ベレンガーリオに敗れて902年にイタリアを追われ、盲目にされたうえプロヴァンスへ追放されたという。期待は空しく、教皇は後ろ盾を失って、テオフィラクトゥスとその妻テオドラ、娘マロツィアらの勢力に押さえられていった。

この間に、ランス大司教フルコが殺害された事件で、その黒幕とされたフランドル伯ボードゥアン2世を破門している。教皇は腐敗や風紀の乱れと戦ったが、成果は乏しかったと評される。903年7月、在位3年余で亡くなった。没日は7月30日とされ、遺体はサン・ピエトロ大聖堂の前、グイドの門のそばに葬られた。ベレンガーリオが死に関わった可能性を指摘する見方もあるが、確かなことは分からない。後継の教皇はレオ5世である。

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