伝記
レオ5世は、第118代ローマ教皇(在位903年)である。903年に先代のベネディクトゥス4世が死去したのち、新教皇に選ばれた。在位は903年の後半とされ、正確な月は判別しにくい。英語版によれば、彼は教皇が世俗の権力をほとんど持たなかった「暗黒の世紀」と呼ばれる時期の直前の教皇であった。生年は不明で、出身地もはっきりしないが、ローマ近郊のアルデアに近いプリアピという土地の生まれとされる。ポルトガル語版は、質素な羊飼いの子であったと記し、古い記録の中には、母や一族の働きかけによって十分な教育を受けたとするものもあると述べる。フランス語版によれば、彼はフォルモスス教皇の支持者の一人であった。同時代の著述家アウクシリウスは、彼を聖人のような立派な人物と記したという。
古い目録では彼は「よそ者の司祭」とされ、ローマの主要な教会のいずれにも属さず、枢機卿の教会にも属していなかった。単なる教区司祭にすぎなかったのである。フランス語版は、ローマの聖職者と貴族が自分たちの中から一人の候補に決められなかったため、名声だけが伝わっていた外部の人物を選んだのだと説明する。ポルトガル語版も、主要な教会に属さない点から、道徳的に高い評価を受けた人物で、対立を調停するために選ばれたのだろうと推測している。この頃のローマは、教皇が暗殺されたり、党派が争ったりする不安定な時期にあり、派閥は沸き立っていた。
在位は短く、2か月余りにとどまった。この間に彼は、ボローニャの参事会員たちに、税の支払いを免除する特別な勅書を与えている。しかし、選出に不満を持つ勢力が街で騒ぎを起こし、混乱のなかで教皇は捕らえられた。中心にいたのは、ローマのサン・ロレンツォ・イン・ダマソ教会の司祭枢機卿で、レオの聖職者仲間であり、礼拝堂付きの司祭でもあった対立教皇クリストフォルスである。彼は教皇を廃して牢に投げ込み、自ら教皇の座に就いた。ポルトガル語版は、クリストフォルスが果たしがたい約束で反乱者たちをあおり、後世にまで残る悪評を負ったと伝える。クリストフォルスは903年から904年まで教皇を名乗り、19世紀までは正統な教皇と見なされることが多かったが、教皇史家マンは1910年に、対立教皇であった可能性が高いと論じた。英語版によれば、彼は後にセルギウス3世に処刑されたという。
レオ5世の最期は明らかではない。日本語版は、904年初めに獄中で殺害されたとする。フランス語版は、獄中で絞殺されたとする説を挙げ、ほかに、クリストフォルスの一派が廃位して投獄しただけだとする説もあるとする。その場合、後任のセルギウス3世が先代のレオと対立教皇の二人を絞殺させたことになるという。英語版は、クリストフォルスの命による殺害、あるいはセルギウス3世とその後ろ盾テオフィラクトゥスによる殺害の可能性を挙げ、マンは、獄中か修道院での自然死の方がありうると論じたとされる。ポルトガル語版が引くカトリック百科事典も同じ見方で、セルギウス3世による死とする伝説は退けている。ポルトガル語版によれば、教皇の在位中に特筆すべきローマの出来事は記録されておらず、その生涯と選出について知られることはごくわずかである。
同じ年に亡くなった人物
- ヤフヤー3世 (904年没)
- Kurszan (904年)
- アルフスウィス (904年(推定))
- クリストフォルス (対立教皇) (904年)
同じ地域に関係する人物
- ボリス・クリストフ (1993年没)
- フォルモスス (ローマ教皇) (896年没)
- ルキウス・アエリウス・カエサル (138年没)
- チェルソ・コスタンティーニ (1958年没)
- Timagenes (紀元前100)