HISTORICAL PERSON · 1878年没

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

サルデーニャ王国最後の国王で、のちイタリア王国の初代国王。リソルジメントを成し遂げ、統一イタリアの象徴として国父と呼ばれた。

生涯
1878年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(トリノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、1820年3月14日に、サヴォイア王国の首都トリノで生まれた。サルデーニャ王国最後の国王(在位1849年から1861年)で、のちにイタリア王国の初代国王(在位1861年から1878年)となった人物である。父はカルロ・アルベルト、母はトスカーナ大公女マリア・テレーザで、その長男にあたる。サヴォイア家の本家は男子に恵まれず断絶し、継承法に基づいて分家のサヴォイア・カリニャーノ家の当主であった父が王位に就いたため、幼い彼と弟には王子の称号が与えられた。子ども時代は王宮や、母方の祖父であるトスカーナ大公のもとで過ごした。1842年には父方の叔母の娘マリーア・アデライデと従兄妹婚をした。叔母の夫はハプスブルク家の皇族で、一族の結束と政略結婚の双方を意図した縁組だったという。歴史家は、軍人肌で、粗野でうぬぼれが強く教育は乏しいが、政治的な直観と陰謀に長けた人物だったと評した。

1848年に革命運動がヨーロッパ各国で起こると、父王は王制の転覆を恐れて、3月に欽定憲法のアルベルト憲章を発布した。議会は二院制で、下院は公選だったが、納税額による制限選挙で、選挙権は全人口480万人のうち約1.7%の8万人にすぎなかった。オーストリアの支配下にあったミラノやヴェネツィアで蜂起が起こると、ミラノの自由主義者の要請を受け、父王は3月23日に宣戦したが、戦局は不利に進んだ。1849年3月に再び開戦したものの、わずか3日後のノヴァーラの戦いで惨敗し、父王は退位してポルトガルへ亡命した。

こうして新国王となった彼は、自らオーストリアのラデツキーと交渉して休戦協定に署名した。そのとき、現状の問題は父王が共和主義者と安易に手を組んだ結果だと語り、父王は愚か者だと言ったという。協定に不満な共和主義者の騒擾は軍に鎮圧させた。穏健な自由主義者のダゼーリョを首相に任じ、議会を解散し、アルベルト憲章を尊重すると宣言して総選挙で穏健自由主義者が圧勝し、休戦協定は批准された。ダゼーリョは彼を、立憲君主制を守る近代的な国王として神格化し、彼は大衆から「紳士王」と呼ばれた。実は絶対王政を志向していたとされるが、内閣に政治責任を転嫁できる利点に気づき、立憲制を壊すことはなかった。

その後の治世は、カトリック教会との対立で揺れた。ダゼーリョ内閣は教会の特権を廃止する法を通し、ローマ教皇ピウス9世の圧力を受けたが、法案は可決された。民事婚法案には、迷信深く敬虔な彼は反対し、ダゼーリョは辞職してカヴールを後任に推した。彼はカヴールと常に対立したが、議会に強い基盤を持つ後任を見いだせず、1852年11月に不本意ながらカヴールを首相に任じた。1855年に修道院法案をめぐる政治騒動が起きると、母、妻、弟を相次いで亡くした彼は、聖職者が説く神罰を信じて法案に反対した。それでも法案は成立し、教皇は7月に国王とカヴールらを破門したが、彼の破門は死の直前に取り消すと約束された。やがて父から引き継いだ戦いを終わらせてリソルジメントを成し遂げ、王国の国父と呼ばれた。統一イタリアの象徴として敬愛され、「イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ」の頭文字が作曲家ヴェルディの名と合致したことから、統一戦争のころには両者を讃える合言葉がイタリア全土で流行したという。1878年1月9日に没した。

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