HISTORICAL PERSON · 1130年没

ホノリウス2世 (ローマ教皇)

第163代ローマ教皇でイモラ出身。1124年にフランジパニ家に推されて選出を強行され、ローマは争乱に陥った。ハインリヒ5世没後の抗争ではロタール3世を支持し、テンプル騎士団を承認した。

生涯
1130年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(San Martino in Pedriolo)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ホノリウス2世は、一二世紀前半にヴォルムス協約後の教会を率いた第一六三代ローマ教皇である。在位は一一二四年十二月二十一日から一一三〇年二月十三日までで、本名はランベルト・スカナベッキという。生まれは一〇六〇年二月九日とされる。日本語版の記事は出身地をイタリアのイモラとし、英語版の記事はイモラ近郊、現在のカザルフィウマネーゼにあたるフィアニャーノの素朴な農村の出だと伝える。身分の低い家柄ながら、その知性と能力によって聖職者の階段を上っていったという。

聖職者としては、まずボローニャの助祭長となり、その働きが教皇ウルバヌス2世の目にとまったと考えられている。次のパスカリス2世はランベルトをラテラン参事会員としたうえで、一一一七年にオスティア司教枢機卿に引き上げた。一一一八年から翌年にかけて、ゲラシウス2世が皇帝の圧力を避けて亡命したときには、随行した枢機卿の一人であり、教皇がクリュニーで没するときにも枕もとにいたとされる。その後、後継の選出にあたっては、パレストリーナ司教コノとともに、教会法にのっとって選挙を進めた。新教皇カリストゥス2世の側近となってフランス各地に同行し、皇帝ハインリヒ5世との最初の折衝にも加わったという。皇帝が司教を選ぶ権利に反対する人物として知られていたため、叙任権の問題を話し合う教皇特使に選ばれたのは自然な流れだったと英語版の記事は述べる。

強い意志の持ち主でもあり、一一二二年九月八日にはマインツに帝国の司教たちを召集し、絶対的な服従を求めた。欠席したバンベルクの司教オットーが停職を受けかけたが、マインツ大司教アーダルベルトの仲裁で避けられたという。叙任権をめぐる争いは、一一二二年のヴォルムス協約によって決着し、英語版の記事はその成立がほとんどランベルトの努力によるものだと評価している。

一一二四年十二月にカリストゥス2世が没すると、選挙をめぐって教会内の対立が表に出た。新たに枢機卿となったフランスやブルゴーニュ出身者と、古くからのイタリア人枢機卿の間に溝があり、両派はそれぞれローマの大貴族に支援を求めた。コロッセオ周辺を押さえるフランジパニ家は前者を、テヴェレ島とマルケッルス劇場の砦を押さえるピエルレオーニ家は後者を支持していた。日本語版の記事によれば、いったんテオバルドが教皇に選ばれたが、フランジパニ家がこれに異議を唱え、自分たちの推すランベルトに教皇の祭服を着せて選出を強行し、ホノリウス2世と称させた。このためローマではしばらく争乱と破壊が続いたとされる。テオバルドは対立教皇ケレスティヌス2世として名が残る。

教皇となってからは、ヴォルムス協約で得た教会の特権を守り、可能ならば広げることに心を砕いた。ハインリヒ5世の没後には、後継をめぐって争うコンラートとロタール3世のうち、後者を支持した。伝統的なベネディクト会には警戒を抱き、アウグスティヌス会やシトー会などの新しい修道会を好み、モンテ・カッシーノやクリュニーのような大修道院には統制を強めようとしたという。一一二八年には創設間もないテンプル騎士団を承認した。一方、南イタリアで勢力を広げるシチリアのロジェリオ2世を止められず、フランス王ルイ6世が教会に干渉するのも防げなかった。一一三〇年二月十三日に没すると、教会は再び混乱し、インノケンティウス2世と対立教皇アナクレトゥス2世が並び立つことになった。

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