伝記
アールパードは、9世紀末から10世紀初めにかけてのマジャル人(ハンガリー人)の部族連合の首長で、アールパード朝の初代の君主とされる。ハンガリー大公として、896年から907年まで在位した。生年は845年頃とされ、歴史家クリストーによる推定である。父はハンガリーの年代記がみなマジャル人の部族連合の最初の首長として挙げるアールモシュで、母の名や出身は分からない。名はハンガリー語で大麦を意味する語に由来する。子にはレヴェンテ、タルホシュ、ユッレ、ユタシュ、ジョルトらがいる。ただし生涯の詳細は、伝える記録が食い違うため、歴史家の間で議論が続いている。
東ローマ皇帝コンスタンティノス7世は、マジャル人には彼以前に他の君主がいなかったと記し、ハザールのハーンが指揮の集中を進め、レヴェディという首長を立てようとしたが、レヴェディは辞退し、アールモシュかアールパードを推したと述べる。人々は知恵と勇気で評判の高い彼を父より好み、盾に載せて掲げる儀式で君主としたという。この記述の信頼性は研究者の間で意見が分かれている。彼は神聖な統治者であるケンデか、軍事指導者であるジュラのいずれかだったかもしれないといわれ、共同統治者クルサーンとの関係も含めて、研究者の見解は一致しない。主に軍事を掌握し、クルサーンが宗教上の最高権威の名誉最高首長であったとする説明もある。
最も確かな最初期の史料は、10世紀初めの年代記の続編である。東ローマ皇帝レオーン6世が894年か895年に使節ニケタス・スクレロスを送り、贈り物を届けてブルガリア帝国への敵対をあおらせた。使節はドナウ川下流でアールパードとクルサーンの二人の指導者に会い、マジャルの軍は東ローマの船でドナウ川を渡ってブルガリアを攻撃した。指揮したのは彼の子リウンティカだったとする説もある。マジャル軍は勝ったが、ブルガリアがペチェネグ族を雇って対抗し、895年か896年に両者がマジャル人の領地に攻め込んだ。住居を破壊されたマジャル人は、カルパチア山脈を越えてパンノニア平原へ向かい、新しい故地とした。ここを本拠に、彼らはバイエルンやイタリアなど各地へ遠征した。年代記の中には、父アールモシュがパンノニアに入れずトランシルヴァニアで殺されたと記すものもあるが、これを疑う研究者もいる。
904年、クルサーンがバイエルンの貴族たちに偽りの宴へ招かれ、従者とともに騙し討ちにされた。これ以後、彼は最高首長と大首長を兼ねて単独の統治者になったとされる。907年にオストマルク辺境伯領に侵入して撃破したが、スイスでフランス王国の軍勢に大敗して撤退し、間もなく没したという。ただし東フランク王国で書かれた記録には、彼の名はまったく登場しない。没年は907年とされる。
彼は今日までハンガリーの民族的英雄として愛され、古い年代記や多くの歌謡の題材となっている。多くのハンガリー人が彼を「我が国の建国者」と呼び、建国神話には、彼の杖の先に光る鳥が止まって道を示したと語られる。この話は日本神話の金鵄との関連からも注目されている。アールパードの血を引く王朝は、1301年までハンガリー王国を統治した。
同じ年に亡くなった人物
- 紀友則 (907年没)
- アラン1世 (907年)
- ルイトポルト (バイエルン辺境伯) (907年)
- ボリス1世 (907年没)
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