HISTORICAL PERSON · 907年没

ボリス1世

第一次ブルガリア帝国のハーンで、大国に発展する礎を築いた。870年にギリシア正教を採用して改宗を強制し、異教に固執する貴族を弾圧した。889年に退位後、長子を廃して三男シメオン1世に後を継がせた。

生涯
907年没
死亡地
ブルガリア共和国(シュメン州 / プレスラフ)
出生地
ブルガリア共和国(プリスカ)
出典
世界地図
ブルガリア共和国(シュメン州)

伝記

ボリス1世は、第一次ブルガリア帝国の君主で、在位は852年から889年。洗礼名をミハイルといい、ボリス・ミハイルとも呼ばれる。ブルガリアが遊牧民の小国からヨーロッパ有数の大国へ発展する礎を築いた人物とされ、東方正教会では聖人、ブルガリアの洗礼者、使徒と同等の者として崇敬されている。いくつもの軍事的な挫折があったにもかかわらず、その治世はブルガリアとヨーロッパの歴史を方向づける出来事に彩られた。ボリスという名はブルガール起源とする説が最も有力で、キリスト教への改宗の公式な手続きの際にミハイルの名を採った。記念日は5月2日で、没したのは907年のこの日である。

ボリスはプレシアン1世の子で、跡を継いだ。852年に東フランクへ使節を送り、845年の和約を確認させようとした。即位のころにはビザンツ帝国に侵攻をちらつかせたが、実際には攻めず、南東のストランジャ地方の小さな地域を得た。和約は結ばれなかったものの、両国は一時的な使節を交換した。854年にはモラヴィア公ラスティスラフに説得されて東フランクに対する戦いに加わった。フランク人の一部がボリスを買収してルートヴィヒ・ドイツ人王を攻めさせたという説もある。この遠征は失敗に終わり、ルートヴィヒは大勝してブルガリアに侵入した。同じころ、それまで平和に共存していたクロアチア人もブルガリアと戦ったが、これは東フランクの側がクロアチア人に金を払ってボリスの注意をそらしたためとも考えられている。ボリスは成果を上げられなかった。

大きな転機は改宗である。南スラヴ人とテュルク系のブルガール人との融和を図るため、キリスト教の導入を考え、864年にギリシア正教に帰依した。ところが正教会の布教が自国の独立を脅かすことを恐れ、いっとき、フランク王国と結んでローマ・カトリックに改宗しようとも試みた。しかしローマ教皇がブルガリア教会の独立に消極的だと知ると、コンスタンティノープル総主教の管理のもとでブルガリア大主教区の実質的な独立を得ることができたため、870年にあらためてギリシア正教を採用した。コンスタンティノープルとローマの対立をたくみに利用して自立した教会を確保した外交手腕は、ビザンツの干渉を心配する貴族たちの懸念にも応えるものだった。改宗後は国民に改宗を強いた。異教に固執した貴族は厳しく弾圧されたという。これによって異教は廃された。

885年、キュリロスとメトディオスの弟子たちが大モラヴィアから追放されると、ボリスは彼らをかくまって援助した。これがグラゴル文字を救い、のちのキリル文字とスラヴ文学の発展を促したとされる。889年、長子ウラディミールに位を譲って修道士となったが、ウラディミールの治世に異教の勢力が復活したため、ボリスはこれを問題視して彼を廃した。三男のシメオン1世に跡を継がせ、ふたたび引退した。その後のプレスラフ会議では、ビザンツ系の聖職者が土地の出身者に替えられ、教会の言語もギリシア語から、現在の古代教会スラヴ語に改められた。

称号については、確かな証拠は印章や碑文に残る「ブルガリアのアルコン」だけで、同時代のブルガリアの記録ではクニャージと呼ばれる。改宗の前にはハーンあるいはカナスビギという称号であったが、改宗の後にクニャージに改めたと考える歴史家が多い。のちの第二次帝国の時代には、息子シメオンと同じく、さかのぼって皇帝(ツァーリ)とも呼ばれた。

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