HISTORICAL PERSON · 紀元前333没

ピクソダロス

カリアの太守で、紀元前340年から334年まで統治。ヘカトムノス家の先代たちが築いた強い地位により、王や君主に近い立場にあった。

生涯
紀元前333没
死亡地
トルコ共和国(ムーラ県 / ハリカルナッソス)
出生地
トルコ共和国(ハリカルナッソス)
出典
世界地図
トルコ共和国(ムーラ県)

伝記

ピクソダロスは、カリアの太守である。名目上はアケメネス朝ペルシアの太守だったが、前任者のヘカトムノス家が築いた強い地位のおかげで、王あるいは支配者に近い立場にあった。紀元前340年から紀元前334年まで統治したとされる。ヘカトムノス家は、暗殺されたペルシアの太守ティッサフェルネスの後を継いでカリアの太守領を握った一族である。リュキアもマウソロスの時代からカリアの支配者が治めており、リュキアのクサントスの三言語碑文にもピクソダロスの名が支配者として現れる。

ピクソダロスはヘカトムノスの三人の息子の末子だった。三人の息子はいずれも故国の主権を握った。ほかに兄マウソロスと、その妻でもあった姉アルテミシアも太守の座にあった。二番目の兄ヒドリエウスが没すると、太守領はヒドリエウスの妹であり妻でもあるアダが継ぎ、これはペルシア王アルタクセルクセス3世にも認められた。しかしピクソダロスはこの取り決めを侮辱と受け取って不満を抱いたという。双方は争い、紀元前340年に首都ハリカルナッソスを押さえたピクソダロスが新たな太守となり、アダは追放された。ただしアダはなお各地の支持を得て、アリンダの要塞を確保した。このため紀元前336年春にマケドニアのパルメニオンが小アジアに侵入した際、ピクソダロスは兵を送る余裕がなかったとされる。それでも紀元前340年から六年間、表立った反対なく統治したともいわれる。

外交にも力を入れた。娘の一人をオロンテバテスというペルシア人に嫁がせ、在世中にその者へ権力の一部を与えたようでもある。一方で、マケドニア王ピリッポス2世の強い友誼を得ようと、ピリッポスの長子で障害のあったアリダイオスに娘を嫁がせる縁談を持ちかけた。ピリッポスはこの提案を喜んだとされ、カリアを味方にすることの価値の大きさがうかがえる。ところが、自分が軽んじられていると感じた若いアレクサンドロスは、悲劇役者テッサロスを密かに使者としてカリアに送り、自分がその娘の求婚者になると申し出た。ピクソダロスはこれを喜んで受け入れたが、怒ったピリッポスが介入して息子を罰したため、縁談はすべて立ち消えになった。

ピクソダロスは独自の金貨を鋳造させた。当時、金貨の鋳造はペルシア王だけに認められた権利だった。クサントスで見つかったギリシア語とリュキア語の二言語の布告断片には、クサントス、ピナラ、トロス、カデュアンダというリュキアの諸都市に与えた特典が記されている。三言語碑文は、アルタクセルクセス4世の治世とされる年に刻まれたとされ、ピクソダロスがカリアとリュキアの太守であると記し、リュキアの支配者としてヒエロンとアポロドトスを、クサントスの統治者としてアルテメリスを任じたと伝える。

ピクソダロスは、自然死だったらしく、紀元前334年にアレクサンドロスが小アジアに上陸する前、サルディスやミレトスが陥落したころに没した。ダレイオス3世は貴族のオロンテバテスをスーサから送って太守領を任せた。オロンテバテスはピクソダロスの娘アダ2世の夫であり、娘婿として後を継いだ。ダレイオスが先代の妹アダを認めなかったことから、オロンテバテスはすでに一族に入っていて継承を主張できたのだろうと推測されている。オロンテバテスはまもなくハリカルナッソス攻囲でアレクサンドロスに追われ、アレクサンドロスの承認のもとでアダ女王が復位した。

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