伝記
カール・エルンスト・アドルフ・アンデルセンは、1818年7月6日にプロイセン王国のブレスラウ、現在のポーランド領ヴロツワフで生まれたチェスプレーヤーで、数学の教師である。デンマーク人の家庭に生まれ、生涯のほとんどを生まれた町で過ごした。公立のギムナジウムを卒業したのち、同地の大学で数学と哲学を学んだ。大学を卒業したのは1845年とも1847年ともされ、卒業後はフリードリッヒ・ギムナジウムで数学の教師になり、後にブレスラウ大学の数学教授になった。生涯結婚せず、未亡人の母と独身の妹とともに暮らし、その生活を支えた。仕事は数学の教育であり、趣味でありかつ大きな情熱であったのがチェスだった。
9歳のときに父からチェスを教わったが、上達は取り立てて早くはなかった。金も時間もなく、強い相手と指す機会に恵まれなかったからだという。彼自身は、ウィリアム・ルイスの著書『ラ・ブルドネとマクドネルの50局』から戦略を学んだと語っている。それでも、1842年にチェス・プロブレムの本『チェスプレーヤーのための課題』を出版し、60題の問題を収めて、初めてチェス界で注目された。問題の作成はその後も長く続け、1852年にも二冊目の問題集を出している。この本は、ベルリンのプレアデス会という、ドイツの強豪が集まる会の目にとまった。1846年には、当代屈指の強豪の一人ハイデブラント・ウント・デア・ラーザとほぼ互角に戦い、創設者の一人ブレドウの死去を受けて、ベルリン・チェス協会の機関誌の編集者の一人にも加わり、1865年までその役を務めた。
1848年に職業プレイヤーのハーヴィッツとマッチを行って引き分け、このことと評判によって、1851年にロンドンで開かれた史上初の国際大会にドイツ代表として招待された。旅費の負担から招待を渋ったが、主催者のスタウントンが、賞金が得られなければ自費で旅費を負担すると申し出た。準備としてマイエ、ファルクベーア、ランゲ、デューフレンらと対局を重ねた。大会は短い対局による勝ち抜き戦で、キゼリツキーやスタウントンらを破って優勝した。この時期の1851年の対キゼリツキー戦は「不滅の局」、1852年の対デューフレン戦は「常緑の局」として知られ、彼は攻撃的な棋風のロマン派の代表格とされる。
1858年にはパリでポール・モーフィーとマッチを行い、2勝2分7敗で敗れた。しかしモーフィーの引退後、1862年にロンドンで開かれた国際大会に参加して12勝1敗の好成績で優勝し、再び世界最強と目されるようになった。1866年に若きヴィルヘルム・シュタイニッツとのマッチに6対8の僅差で敗れ、世界最強の座を譲ったとされる。その後もバーデンバーデンの国際大会ではシュタイニッツを半点抑えて優勝した。1877年、59歳でライプツィヒ大会に出て2位となり、これが棋歴の最後となった。
人に好かれ、きわめて正直な人間とされ、シュタイニッツは「その公正さは有名で、彼が口を開けばたいていのもめごとは収まった」と書いた。モーフィーとの対戦で指された1.a3という奇妙な一手は、アンデルセンの名を冠した定跡名として残る。1879年3月13日、生まれた町のブレスラウで世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- セルゲイ・ソロヴィヨフ (1879年没)
- リチャード・H・アンダーソン (1879年没)
- ベルナデッタ・スビルー (1879年没)
- ニコライ・ザレンバ (1879年没)
- アウグスト・グリーゼバッハ (1879年没)
同じ地域に関係する人物
- リヒャルト・プファイファー (1945年没)
- ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (1830年没)
- ズビグニェフ・ツィブルスキ (1967年没)
- ヨハネス・ヨンストン (1675年没)
- ザーロモン・マイモン (1800年没)