伝記
ベルナデット・スビルーは、1844年1月7日に南フランスのルルドで生まれた聖女で、本名はマリー=ベルナデットという。聖母の出現を体験し、のちにヌヴェール愛徳女子修道会の修道女となった。写真に撮られたカトリック教会で最初の聖人とされ、彼女が見つけた泉の水で不治の病が治った例は、教会が公認したものだけで68例にのぼる。ルルドはこうしてカトリック教会の最大級の巡礼地となった。
母方のカステロー家は、1841年に水車小屋の主ジュスタンが馬車の事故で亡くなり、未亡人クレールが6人の子を抱えて途方に暮れていた。ピレネー地方には性別を問わず長子が財産と土地を相続する慣習があり、一家を再興するには長女を同業者と結婚させる必要があった。母は近くの水車小屋で働く34歳のフランソワ・スビルーに話を持ちかけたが、彼が気に入ったのは次女のルイーズだったため、次女が先に嫁ぐことになった。結婚式は1843年1月9日で、翌年に長女ベルナデットが生まれた。
生後1年足らずのうちに災いが続いた。1844年11月、暖炉のそばにいたルイーズの服にランプが落ちて燃え移り、胸にひどいやけどを負ったため、ベルナデットは乳母のもとに預けられた。やがて父フランソワは水車小屋で金槌を修理中に石の破片で右目を傷つけ、仕事がうまくいかなくなった。それでも施しを求める者を断らなかった。1855年にはルルドを襲ったコレラにかかって一命を取りとめたが、もともと病弱だったため、以後は喘息の発作に苦しんだ。祖母の遺産で新しい水車小屋を借りたものの、字が読めない父は契約の内容を理解できずに、一年しか仕事を続けられなかった。小麦の不作も重なって失業し、一家は牢獄跡の「カショー」と呼ばれる建物に住むことになった。検事は「汚くて暗くて人間の住めるところではない」廃屋と記録している。ベルナデットは、里子に出されたバルトレス村で羊飼いをして暮らした。公教要理を教えてもらう約束は十分に守られず、初聖体を受ける頃になっても読み書きができなかった。
1858年2月11日、彼女は妹と隣家の少女とともに、薪を拾いにマッサビエルの洞窟へ向かった。川を渡るため靴下を脱ごうとしたとき、風のような音を聞いて顔を上げると、洞窟のくぼみに白い服の女性が見えたという。ポケットのロザリオに触れて十字を切ろうとしたが手が挙がらず、女性が先に十字を切ると手が挙がるようになり、ロザリオの祈りを唱えたという。誰にも言わない約束で話を聞いた二人が約束を破ったため、噂は町中に広まった。ミエ夫人が女性に名を書くよう願い出ると、女性はその必要はないとして「15日間続けて来てほしい」と答え、この世での幸せは約束できないがあの世での幸せを約束する、とも述べたという。警察署長は少女を連行して調書を作ろうとしたが、彼女は見たことの改竄には同意せず、洞窟へ行くことを禁じられてしまった。2月23日に立ち会った税務署長エストラードは、祈る彼女の顔つきの変化に驚き、疑いを改めた。2月25日には、洞窟前に集まった約350人の前で地面を掘って泥水をすくって飲み、人々にあざけられたが、そこから湧いた水は絶えることなく流れ続けたという。同日夕、検事は彼女を尋問したが、押しかけた民衆に押され、釈放した。3月1日には、泉の水に右手を浸した女性の指が動くようになったという最初の奇跡が伝えられた。その後ヌヴェール愛徳女子修道会に入り、1879年4月16日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョセフ・フッカー (1879年没)
- ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ (1879年没)
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- ケイレブ・クッシング (1879年没)
- オノレ・ドーミエ (1879年没)
同じ地域に関係する人物
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- ヤン2世 (ポーランド王) (1672年没)
- ジャン・ド・ブルゴーニュ (1415-1491) (1491年没)
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