伝記
オットー1世は、880年から912年までザクセン公を務めた人物である。851年ごろに生まれ、912年11月30日に没した。後世の著者から「貴顕公」あるいは「栄光公」と呼ばれた。リウドルフィング家(のちのオットー朝)の一員で、孫には皇帝オットー大帝がいる。リウドルフィング家の名は父リウドルフに由来し、孫の即位後にオットー朝と呼ばれるようになった。父はザクセンの伯リウドルフ(866年没)、母はザクセンの有力者ビルングの娘オダである。兄にブルン、姉にリウトガルトがおり、リウトガルトは876年に東フランク王ルートヴィヒ3世(若王)の妃となった。この結婚は、リウドルフがザクセンで占めた優位を示すものだったという。880年2月2日、兄ブルンはヴァイキングの侵入軍と戦ったリューネブルガー・ハイデの戦いで戦死し、オットーがザクセン公位を継いだ。
領地については、877年に国王ルートヴィヒ3世がガンダースハイム修道院に与えた特許状に、南テューリンゲンが「オットーの所領」と記されている。897年1月28日の特許状ではオットーは辺境伯とされ、アイヒスフェルトを領していた。908年にはヘルスフェルト在俗修道院長の地位にもあった。ザクセンとテューリンゲンの広大な所領を支配し、東方のダレミンツィ人など隣接するスラヴ系の諸部族に貢納を課したともいう。フランス語の伝えでは、884年にイタリアで戦ってミラノの総督に任じられ、ハンガリー人やヴェンド人も撃退したとされる。一方でカロリング家の宮廷とのつながりは緩く、ザクセンを離れることはまれで、東フランクの地方的な有力者にとどまった。主君のルートヴィヒ3世と皇帝アルヌルフとは良好な関係にあり、両者がザクセンの自立に干渉することもほとんどなかった。
911年、最後のカロリング家の王ルートヴィヒ幼童王が亡くなると、コルヴァイのヴィドゥキントによれば、ザクセン人とフランク人はオットーに王位を提供した。しかしオットーは高齢を理由に辞退し、コンラート1世を推したという。ただしこの話が史実かどうかは疑わしいとされる。マインツ大司教ハットーとともにコンラートを推挙したともいわれる。
オットーは、869年ごろまたは873年ごろ、ハトヴィヒと結婚した。ハトヴィヒは、バーベンベルク家のオストマルク東方辺境伯ハインリヒの娘とされ、903年に没している。二人の子には、912年より前に亡くなった長男タンクマールと次男リウドルフ、のちにザクセン公となり東フランク王ハインリヒ1世(捕鳥王)となる三男ハインリヒがいる。娘オダは東フランク王アルヌルフの庶長子であるロタリンギア王ツヴェンティボルトと結婚し、死別後にメッツ伯ジェラール1世と再婚した。ハトヴィヒは母方からフランク王ルートヴィヒ1世の曾孫にあたる。ほかにも、ガンダースハイムの女子修道院長となったリウトガルトや、クレーフェ伯に嫁いだマティルデ、辺境伯ティートマルの子ジークフリートに嫁いだイルミンブルクなど、娘が複数いたとされる。三男ハインリヒは876年に生まれ、936年に没した。オットーはムルバッハ修道院に特権を確認する文書も発しており、そこには多くの家臣の同意が記されている。
912年、オットーはヴァルハウゼンの王宮で没した。遺体はガンダースハイムの教会に葬られた。ただし、年代記は死去の月日を記すものの、年を明記しない。
同じ年に亡くなった人物
- 朱全忠 (912年没)
- オレグ (キエフ大公) (912年)
- イブン・ルスタ (912年)
- ノトケル・バルブルス (912年)
- アフマド・ブン・ユースフ・バグダーディー (912年)
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