伝記
アギス3世は、紀元前338年から紀元前331年までスパルタを治めたエウリュポン朝の王である。先王アルキダモス3世の長子で、祖父は名高いアゲシラオス2世にあたる。次代の王となるエウダミダス1世は弟である。マケドニアの覇権に対してスパルタの反乱を率いたが、メガロポリスの戦いで敗れて戦死した。
スパルタは紀元前371年のレウクトラの戦いでテーバイに敗れて以来、大国の地位と領土の一部を失っていた。紀元前351年、アルキダモスとアギスは失地の回復をめざしてペロポネソス半島で戦った。テーバイが北西の境に築いた都市メガロポリスなどが相手で、ポキスの傭兵3000人の支援もあったが、成果はなかった。紀元前338年の初め、父はマグナ・グラエキアのスパルタ系植民市ターラスの傭兵隊長として出国し、カイロネイアの戦いと同じ8月2日にルカニア人との戦いで世を去った。それまで父の不在中に摂政を務めていたアギスは、訃報が届くと王位に就いたとされ、時期はおそらく8月末である。
カイロネイアで勝ったマケドニア王ピリッポス2世はコリントス同盟を作ったが、アギスの意向によるとみられるスパルタはこれへの加入を拒んだ。そのため秋にピリッポスがラコニアへ兵を進め、スパルタ領の一部を隣国に与えた。デンタリスをメッセネに、アイギュティスとベルミナティスをメガロポリスに、スキリティスをテゲアに、テュレアティスをアルゴスに渡したのである。アルキダモスの遠征の失敗とこの懲罰を経て、アギスは正面からの対立を避け、損失の回復と好機を待つ道を選んだ。スパルタは以後5年間静かに過ごし、紀元前335年のテーバイの反乱にも加わらなかった。
最初の動きは紀元前333年である。アレクサンドロス3世がアジアに渡ったあと、ペルシアのダレイオス3世が反攻に出ると、アギスは使者エウテュクレスをスサの宮廷へ送ったとされる。同年、自らも三段櫂船1隻でエーゲ海へ向かい、ペルシアの指揮官ファルナバゾスとアウトプラダテスに、対マケドニアの軍事行動のための資金と武器を求めた。二人は承諾したが、出せたのは30タラントンと船10隻だけだった。そこへイッソスの戦いの報が届いて計画は頓挫した。アギスは弟アゲシラオスに船を託してクレタ島へ送り、島をスパルタの側につけさせた。これはかなり成功したようだという。
紀元前331年、スキュティア遠征でのマケドニア将軍ゾピュリオンの惨敗とトラキアの反乱を好機として、反マケドニアの同盟諸国は開戦を宣言した。アテナイなどは加わらなかった。アギスは総司令官となり、スパルタ軍とイッソスで戦ったギリシア人傭兵8000人を率いて、ペロポネソスでコラゴス指揮下のマケドニア軍を破った。エリス、アカイア、アルカディアの軍も合流し、味方につかなかったメガロポリスを包囲した。しかし、トラキアの反乱を収めた将軍アンティパトロスが大軍を率いて救援に駆けつけ、メガロポリスの戦いとなった。ガウガメラの戦いと同じ頃のことである。ギリシア側は数に押されて敗れ、アギスは多くの傷を負いながら戦い続けた。ディオドロスによれば、兵に担がれてスパルタへ戻る途中で敵に囲まれると、部下に逃げて祖国のために生き延びよと命じ、自分は膝立ちで武器を取り、敵を倒したのち投げ槍に討たれた。在位は9年であった。この敗北でスパルタの反乱は終わった。アギスに子はなく、王位は弟エウダミダス1世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドロス1世 (エピロス王) (紀元前331年没)
同じ地域に関係する人物
- Lastheneia of Mantinea (紀元前400)
- ペリアンドロス (紀元前584)
- テュルタイオス (紀元前700)
- ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン (1278年没)
- メロスのディアゴラス (紀元前450)