HISTORICAL PERSON · 紀元前331年没

アレクサンドロス1世 (エピロス王)

エピロス王でアレクサンドロス大王の叔父。姉オリュンピアスの娘と結婚してピリッポス2世と同盟した後、イタリアに遠征しルカニア人らと戦ったが暗殺された。

生涯
紀元前331年没
死亡地
イタリア共和国(コゼンツァ県 / Pandosia)
出生地
アルバニア共和国(エピルス)
出典
世界地図
イタリア共和国(コゼンツァ県)

伝記

アレクサンドロス1世は、エピロス(モロッシア)の王である。アイアコス家の出身で、モロソス人のアレクサンドロスとも呼ばれる。祖父は王アルケタス1世で、ネオプトレモス1世の三番目の子であり、ただ一人の男子だった。エピロス王ネオプトレモス1世の息子として生まれ、紀元前370年とも紀元前362年ともいわれる。在位は紀元前350年から紀元前331年とも、紀元前343年から紀元前331年ともされる。姉のオリュンピアスはマケドニア王ピリッポス2世の妃で、のちのアレクサンドロス大王の母であるため、彼は大王の叔父にあたる。

幼少期は不遇だった。一説では、母は誕生から数日後、あるいは出産の際に亡くなり、2年後に父ネオプトレモス1世も急死した。そこで叔父のアリュバスが摂政として王国を預かり、彼が成人するまで事実上の王となった。姉の一人トロアは、そのアリュバスと結婚させられ、アイアキデスとアルケタス2世という二人の息子を産んだという。もう一人の姉ポリュクセネ、のちのオリュンピアスは、アリュバスとピリッポス2世の間の取り決めによってピリッポスの妃となった。彼女の生来の名はポリュクセネで、嫁いでミュルタレと改め、のちに、ピリッポスがオリュンピアで収めた勝利にちなんでオリュンピアスと改めたとされる。オリュンピアスは弟を5歳のころマケドニアの都ペラに呼び寄せたとされる。より良い教育を受けさせ、叔父からも守るためだったと説明される。こうして彼はペラの宮廷で、甥のアレクサンドロスや姪のクレオパトラ、ピリッポスの他の子、貴族の子らとともに育ち、ギリシア風の暮らしを好んだ。

20歳のとき、ピリッポス2世は叔父アリュバスを退位させ、彼をエピロス王の座に就けた。政治的な思惑によるとも、妻オリュンピアスとの関係から生じた家庭内の事情によるともいわれる。この即位はマケドニアに従属する王としてのものだった。ピリッポスは勝利を重ねてギリシア諸都市への覇権を固め、紀元前337年にはスパルタを除く諸都市がコリントス同盟に組み込まれた。エピロスの王もその例外ではなく、ピリッポスを盟主とする同盟の下にあった。

紀元前337年、ピリッポス2世が新たな結婚をして大王の王位継承が脅かされかねなくなり、父子の間に不和が生じた。婚礼の席では、新しい妻の父で有力貴族のアッタロスが、正統な後継ぎが生まれるよう祈ったと伝えられる。オリュンピアスがエピロスの生まれであることを当てこすったものである。オリュンピアスは夫に追放され、弟のもとへ戻って、ピリッポスと戦うよう説いた。しかしアレクサンドロスは拒み、ピリッポスとオリュンピアスの娘で姪のクレオパトラと結婚して、紀元前336年にピリッポスとの同盟を結び直した。ところがその婚礼の場で、ピリッポスはパウサニアスに殺された。のちに、クレオパトラとの間に息子ネオプトレモス2世と娘カドメイアが生まれた。

紀元前334年、ギリシア人の植民市ターラスの求めに応じ、ルカニア人やブルッティ人と戦うためにイタリアへ渡った。パエストゥム近郊でサムニウム人とルカニア人に勝ち、紀元前332年にはローマ人と条約を結んだ。ルカニア人からヘラクレアを、ブルッティ人からテリナとシポントゥムの町を奪った。だが亡命したルカニア人の裏切りでパンドシアの戦いにおいて不利な立場に追い込まれ、ルカニア人の手で暗殺された。死は紀元前331年ないし紀元前330年とされる。

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