HISTORICAL PERSON · 916年没

オフリドのクリメント

キュリロスとメトディオスの主要な弟子。師の死後に弾圧で奴隷として売られたが、ブルガリアのボリス1世に迎えられ、マケドニアで学校を開き、スラブ語での宣教と翻訳を進めて893年に主教となった。

生涯
916年没
死亡地
ブルガリア帝国
出生地
ローマ帝国(イスタンブール県 / 東ローマ帝国)
出典
世界地図
ローマ帝国(イスタンブール県)

伝記

オフリドのクリメントは、840年頃に生まれ916年に没した、古代スラヴ文学の創始者の一人である。モラビアのスラヴ人へのキリスト教宣教で知られるキュリロスとメトディオス兄弟の主要な弟子で、ブルガリアでギリシア語やラテン語ではなくスラヴ語で礼拝と説教、著述を行った最初の聖職者とされる。正教会では聖人、亜使徒とされ、日本語文献ではオフリダのクリメントやオフリドのクレメンスとも表記される。

正確な生年も出身地も不明である。メトディオスの生涯を誰よりもよく知っていたことから、南マケドニアのスラヴ人で、テサロニケ周辺の出身ではないかと考える研究者が多い。モラビア生まれとする少数説もある。クリメントは兄弟の大モラビアへの宣教に加わり、867年か868年にローマで、ゴラズド、ナウムとともに司祭に叙階されたとされる。キュリロスの死後は、メトディオスに従ってローマからパンノニアと大モラビアへ向かった。

当時のモラビア王国は、フランク人がローマ教皇の管轄下に入るよう迫る圧力に抗して、コンスタンティノープル総主教庁の管轄のもとでスラヴ語典礼を採用していた。当初は教皇もこれを容認し、メトディオスの存命中は、教皇と総主教の間の調停により、スラヴ語典礼も保たれた。しかし885年4月6日にメトディオスが死去すると、王スバトプルク1世を補佐するために教皇から派遣されていたニトラ司教ビヒングは、教皇ステファヌス5世から、メトディオスとスラヴ語典礼を非難する文書を得て、モラビアに戻り、弟子たちを弾圧した。弟子たちは捕らえられて奴隷にされるか、流刑に処された。クリメントは投獄されたのち追放され、ヴェネツィアの奴隷市場に売られたともいわれるが、東ローマ帝国の駐ヴェネツィア大使に買い戻されてコンスタンティノープルに送られたと伝えられる。また別の伝えでは、885年か886年にナウム、アンゲラリウスらとベオグラードに達したとされる。

そのころブルガリアのボリス1世は、スラヴ語で熱心に宣教できる人材を求めていた。864年にキリスト教を受け入れて以後、ブルガリアの礼拝はギリシア語で、東ローマから送られた聖職者によって行われていた。ボリスはスラヴ語を採用することで、東ローマの影響の拡大を抑え、国の独立を保てると考えたとされる。モラビアから散り散りになった弟子たちはブルガリアに迎えられ、クリメントはナウムとともに首都プリスカへ送られた。そこからクリメントは、南西部のクトゥミチェヴィツァの地に派遣され、オフリドに学校を開いた。886年から893年までの7年間に、約3500人の弟子にスラヴ語とグラゴル文字で神学を教えたとされる。クリメントはギリシア語文献のスラヴ語への翻訳とともに、スラヴ語による著作も行い、スラヴ語のキリスト教著作の最初期の作者となった。893年にはドレンビツァ(ヴェリカ)の主教に叙階され、のちにオフリド主教とも呼ばれた。

晩年、衰えを感じたクリメントは、主教職を辞することをシメオン1世に願い出たが、慰留を受けて職にとどまった。その後しばらくして主教座を退き、自らオフリドに建てた聖パンテレイモン修道院に引退して、ここでも翻訳と著述を続けた。916年に没し、遺体は不朽体としてこの修道院に葬られ、まもなく聖人とされた。著作の多くはルーシに伝わり、篤信の正教徒によって書き写され、読まれた。ソフィア大学が「聖クリメント・オフリドスキ」の名を冠するほか、小惑星や南極のブルガリア基地にもその名が付けられている。

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