伝記
ミハイル1世キルラリオス(ミカエル・ケルラリオス)は、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教(在位1043年 - 1059年)である。1000年頃、あるいは1005年から1010年の間に、コンスタンティノープルの元老院議員の家に生まれ、1059年1月21日に没した。1054年の東西教会の相互破門のときの総主教として知られる。
若いころのことはほとんど分かっていないが、公務員として働き、1040年に皇帝に対する陰謀に加わって発覚し、兄弟とともにプリンキポ諸島へ流された。兄弟は自殺したが、ミハイルは修道士となる道を選び、そのころから総主教の座を望んだという。やがて流刑を解かれ、次の皇帝の信任を得て、総主教の後継者となることが多い「シンケロス」の位に進んだ。1043年に総主教アレクシオス・ストウディテスが没すると、皇帝は彼を後任に選んだ。神学や教会史の知識は乏しかったが、官僚時代に培った有能で精力的な行政手腕を持っていた。就任の当初から総主教座の威信と権力を高めることに全力を注ぎ、多様なものを容れにくい性格から、管区内の宗教的慣行の統一に取りかかった。その対象には、帝国に併合されて間もないアルメニアも含まれていた。
当時、南イタリアでは帝国の支配が揺らぎ、教会の管轄がコンスタンティノープルからローマへ移る地域も出ていた。教皇庁が現地の教会にラテン式の典礼に従うよう命じると、ミハイルはコンスタンティノープルのラテン系の教会にギリシア式の典礼に従うよう命じた。さらにオフリドの大主教レオンに、ラテンの慣習を批判する手紙を教皇と西方の司教たちへ書かせた。これに強く反応したのが、教皇の側近の枢機卿フンベルトである。フンベルトは無発酵パンの使用やフィリオクェをめぐって東方を非難し、教皇の絶対的な権威を主張する人物であった。教皇レオ9世に宛てた手紙でミハイルが「全地総主教」を名乗り、教皇を「父」ではなく「兄弟」と呼んだことも争点となった。
フンベルトはローマ側の使節としてコンスタンティノープルを訪れたが、ミハイルは数か月にわたって会おうとしなかった。1054年6月16日、フンベルトはアギア・ソフィア大聖堂の宝座に総主教らを破門する書状を置いて去った。このときレオ9世はすでに3か月前に没していたため、この破門はフンベルト個人の独断の面が強かったという。ミハイルはこれに対し、フンベルトとその一行を破門した。ノルマン人に備えて西方との関係改善を望んでいた皇帝コンスタンティノス9世は、この対抗措置を抑えることができなかった。この事件の後、ミハイルは皇帝や、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレムの総主教に対する影響力を強め、国政にも口を出すようになった。テオドラが単独の女帝となると、彼女は総主教を遠ざけようとしたともいわれるが、治世が短く実行できなかった。
ミハイルは、テオドラの後継者に対する陰謀に加わり、イサキオス・コムネノスを帝位に就ける側に回った。しかし二人の関係はまもなく悪化し、総主教は皇帝と対等であるかのようにふるまい、皇帝の紫の靴を履くまでになったという。軍の支持を得ていたイサキオス1世は、総主教の民衆への人気を知ったうえで、彼を逮捕してマルマラ島へ流し、異端などを理由に解任するための教会会議を招集した。教会財産の没収や徴税の強化に総主教が反発したことも背景にあった。ミハイルは辞任の圧力に最後まで抵抗し、裁判が開かれる前の1059年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- アブドゥッラー・イブン・ヤースィーン (1059年没)
- ミカエル6世ストラティオティコス (1059年没)
- ベルンハルト2世 (ザクセン公) (1059年没)
- ギゼルベルト (ルクセンブルク伯) (1059年没)
同じ地域に関係する人物
- アブディ・イペクチ (1979年没)
- Leyla Erbil (2013年没)
- アナスタシウス1世 (518年没)
- ブーハン・チャヒト・ドーアンチャイ (2013年没)
- Rober Eryol (2000年没)