HISTORICAL PERSON · 917年没

布袋

唐末から五代にかけて明州にいたとされる伝説的な僧で、本名は契此。水墨画の題材として好まれ、大きな袋を背負った太鼓腹の姿で描かれた。弥勒の化身との伝説があり、日本では七福神の一神。

生涯
917年没
死亡地
中華人民共和国(浙江省 / 岳林寺)
出生地
—
出典
世界地図
中華人民共和国(浙江省)

伝記

布袋(ほてい、生年不詳-917年)は、唐代末から五代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧である。本来の名は契此(かいし)で、釈契此とも呼ばれる。常に大きな袋(頭陀袋)を背負っていたことから布袋という俗称がついた。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧の姿で描かれる。日本では七福神の一神として信仰されている。

出身地も俗姓も不明で、四明県の出身とする説がある。寺に住むことなく各地を泊まり歩き、生臭ものでも構わずに施しを受け、その一部を袋に入れていたという。風変わりな姿ながら素直な心の持ち主で、人々を満ち足りた気持ちにさせる不思議な力があったと伝わる。四明山で多くを過ごし、袋を持って山を下りたともいわれる。弟子を求めることも大先生として敬われることも望まず、寺で説教するかわりに、子どもたちに囲まれて袋を背に歩いたという。袋の中身を尋ねられると「全世界」と答えたとされ、のちの禅の語りでは「空の袋」とも説かれた。

『景徳伝灯録』には、雪の中で横になっていても布袋の体の上だけには雪が積もらなかったという話がある。人の吉凶を言い当てた逸話や、謎めいた公案のような問答、偈や歌も残る。歌では心の真実の大切さや、静かな心境を求めることが説かれる。嵐の日に橋の下で雷鳴を聞いて悟りに至ったとも語られ、死後も各地をさまよい、雪の上で眠り、肉を食べて酒を飲んだともいう。天候の予言も評判で、水の草鞋をはくと雨、木の履物をはくと晴れだと人々は知ったという。笑って教えを示したとも語られ、禅とは何かと問われて袋を下ろし、またしばらくして問われると袋を担いで子どもたちと遊びに戻ったという話もある。

最期にも不思議な話が伝わる。天復年間(9世紀末)に奉化県で亡くなったとされ、貞明3年3月3日(917年3月28日)に嶽林寺で遷化したという説もある。埋葬されたのに、後日、他の州で姿を見かけられたといい、仙人の尸解に似た話である。死に際に「弥勒は真の弥勒にして、分身千百億なり。時時に時分を示すも、時人は自ら識らず」という偈を残したという。このことから、布袋は弥勒菩薩の化身だとする伝説が広まった。没後まもなく江南で布袋の図像を描く習慣があったとの記録がある。

布袋を禅僧と見る向きもあるが、10世紀後半の『宋高僧伝』の伝は禅との関係に触れていない。禅宗との結びつきが現れるのは、11世紀初頭の『景徳伝灯録』が「明州布袋和尚」として立伝するころからである。中世以降の中国では、布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒仏の姿として描かれ、寺院の主要な仏堂に安置されるのが通例となった。日本では鎌倉時代に禅画の題材として受け入れられ、庶民には福の神として信仰を集め、室町時代後期に七福神に組み入れられた。度量の広さ、円満な人格、富貴繁栄を司るとされ、袋は「堪忍袋」とも見なされた。笑門来福、夫婦円満、子宝の神ともされる。真言三宝宗大本山清荒神清澄寺では、三宝荒神の眷属とされる。七福神が確定するのは江戸後期のことである。布袋図も、当初は弥勒菩薩の化身として描かれたが、しだいに「腹さすり布袋図」や「眠り布袋図」のように人間味のある図も描かれた。黄檗宗大本山萬福寺の天王殿には、布袋の姿をした金色の弥勒仏像が安置されている。中国ではこの像は布袋和尚ではなく、一般に弥勒と呼ばれ、西欧人からはマイトレーヤと呼ばれる。

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