伝記
弓裔(きゅうえい、?-918年)は、後三国時代の群雄の一人で、後高句麗(のち摩震、泰封)の建国者である。姓は金、僧号は善宗といい、隻眼だったことから一目大王とも呼ばれた。918年に有力な部下の王建らに追われたため、諡号はない。
『三国史記』によると、新羅の憲安王または景文王の庶子として生まれた。日官は、重午の日の生まれで、空がおぼろで、生まれながらに歯が生えていることを不吉とし、王は殺すよう命じたという。しかし兵は殺せず、赤ん坊を宮殿の下に投げ捨て、乳母が受け止めた。その際に乳母の指が目に刺さり、弓裔は片目を失った。乳母は都から遠く離れて貧しい暮らしのなか、実の母として育てた。10歳のころ、騒動ばかり起こす弓裔に、乳母は出生の秘密を告げた。弓裔は泣いて詫び、家を出たという。ただし学界では、憲安王には娘が二人いたらしいことから、王子を殺す理由はないとの見方もある。いずれの王の子であっても、王子でありながら見捨てられて民間で育ち、新羅王室に反感を持ったと考えられる。
家を出た弓裔は世達寺で僧となり善宗と称したが、戒律にとらわれない人物に育った。托鉢の鉢にカラスが落とした象牙の札に「王」の字があったことが、王になる野望の契機となったという。当時の新羅は中央の統制が失われ、凶作も続いて各地で豪族が反乱を起こしていた。889年には飢饉の翌年に税が大きく引き上げられ、反乱が相次いだとされ、地方の豪族は各地で事実上の支配者となって国土を分けつつあった。891年に弓裔は盗賊の頭領箕萱の部下となったが去り、892年に北原の梁吉の部下となった。893年から梁吉の部下を率いて酒泉、奈城などを攻略し、江原道、京畿道、黄海一帯に勢力を広げた。894年には溟州を占領して3500の兵を得、14の部隊をつくった。兵と苦楽をともにし、戦利品を分配するなど公平であったため、人望を得たという。自らを弥勒と称し、人々は救済者として推した。
鉄原を拠点に独立国としての体制を整えた。895年には梁吉が娘を弓裔に嫁がせた。松嶽の豪族王建が降り、弓裔は彼を鉄原郡太守に任じ、県の攻略を命じた。898年には国原、清州など30余州を落とし、半島中部を占めた。梁吉は弓裔を倒そうとしたが、返り討ちにされた。901年、弓裔は王を称して後高句麗を建国し、892年に完山州を拠点とした甄萱の後百済、慶州付近を保つ新羅とで、後三国時代となった。904年に国号を摩震、年号を武泰と改め、のち都を鉄円に移した。906年には後百済軍を尚州の沙火鎮で破り、910年には王建に水軍を与えて珍島、皐夷島、錦城を奪わせ、甄萱を牽制した。この頃、勢力は南は公州、東北は安辺、西北は黄海道、平安道に及んだ。
911年には国号を泰封、年号を水徳万歳と改め、自らを弥勒菩薩、長男を青光菩薩、次男を神光菩薩と呼ばせた。このころから粗暴なふるまいが増え、『高麗史』によれば、弥勒観心法と称して人々の本性を探ることに熱中し、熱した鉄棒で拷問し殺害を繰り返した。諫めた王后の康氏は不倫を疑われて殺され、二人の息子も殺された。多くの臣下を殺して人心を失い、918年、部下の卜智謙、申崇謙、洪儒、裵玄慶らが王建を王に推戴した。逃れた弓裔は、飢えをしのごうと畑の作物を盗もうとして村人に見つかり、平康で殺されたとされる。兵士に殺されたともいわれる。その後、王建は高麗を建て、936年に三国を統一した。
同じ年に亡くなった人物
- ウマル・イブン・ハサン (918年)
- ボードゥアン2世 (フランドル伯) (918年没)
- ギヨーム1世 (アキテーヌ公) (918年没)
- コンラート1世 (ドイツ王) (918年没)
- エセルフリーダ (918年没)
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