伝記
ギヨーム1世は、875年3月22日に生まれ、918年7月6日に没したとされる、カロリング朝末期のオーヴェルニュ伯・アキテーヌ公である。ギレム家(ギヨーム家)の出身で、オーヴェルニュ伯としては2世にあたる。在位は伯として886年から、公として893年からである。敬虔公(ル・ピユー)の異名で知られる。父はオーヴェルニュ伯ベルナール2世、母はエルマンガルドである。
886年に父が没すると、オーヴェルニュやゴティアなど一族の主要な所領を受け継いだ。当時の文書は彼をおもに伯や辺境伯と呼んでおり、公の称号は9世紀末ごろから現れ、やがて国王の証書にも定着していった。オーヴェルニュとリムーザンを相続して治め、893年には庶子公エブルに代わってポワトゥーとアキテーヌを征服し、アキテーヌ公を名乗った。その所領はアウストラシアからトゥールーズにまで及び、オータンやマコネーも含んだといわれる。ブールジュ、マコン、リヨネにも伯としての権限を行使した。ただしその権力は、現代の意味での統一された領域ではなく、フランク王国西部の中央部と南部に散らばる公的な役職と私有地の集まりに支えられていた。901年にはリヨンの公領を受け、913年にはその地のサン=ジュストとサン=ティレネの教会に特許状を与えている。現在の歴史研究は、伯を任命する力や王に対する相対的な自立ぶりから、彼を9世紀末から10世紀初めの有力な「領邦君主」のひとりとみている。ブリウドで彼自身の名で鋳造されたドゥニエ貨が見つかっており、独立してアキテーヌを統治していた証拠とされる。
ギヨームの名をもっとも高めたのは、クリュニー修道院の創建である。創建は909年とも910年9月11日ともされる。彼は修道院を教皇の直接の保護下に置き、公・国王・司教の権威から切り離した。創建の証書には、修道士たちは「いかなる地上の権力にも」服さないと記され、その代わりに共同体はギヨームとその近親者の救いのために絶えず祈ることとされた。当時の修道院の多くは個人の所有物で、修道院長や役員を任命する権利を一族や個人が握っていたから、この措置はとくに際立っていた。ギヨーム自身は運営に関与しなかったが、初代修道院長としてベルノン(ベルノー)を推挙したと伝えられる。クリュニーはのちに政治的にも宗教的にも重要な拠点となるベネディクト会の修道院で、中世西欧の修道院史に長く残る影響を与えた。彼はほかにも多くの修道院を創設し、912年にはマジャンシアクム(モワサ=バ)の領地をブロワのサン=ロメール修道院に寄進した。この寄進は914年に教皇の勅書で確認されている。
898年より前に、プロヴァンス王ボソの娘エンゲルベルガ(エンゲルベルジュ)と結婚した。エンゲルベルガの母は皇帝の娘とされる。二人のあいだには娘がおり、ボソという息子が生まれたともいわれるが、この子は跡を継げなかった。娘のひとりエルマンガルドはルボー1世と結婚し、のちにプロヴァンス家の祖となるアルル伯ボソ2世の母となった。ギヨームは918年に没し、ブリウドのサン=ジュリアン修道院(聖堂)に葬られた。死去の地はリヨンとされる。息子の後継者がいなかったため、姉妹アデリンダの子ギヨーム2世が跡を継いだ。二人の甥が相次いで短期間跡を継いだが、直系の子孫を残さずに世を去ると、アキテーヌの支配をめぐってポワティエ家とトゥールーズ家のあいだに緊張と争いが生じた。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート1世 (ドイツ王) (918年没)
- ボードゥアン2世 (フランドル伯) (918年没)
- ウマル・イブン・ハサン (918年)
- エセルフリーダ (918年没)
- 弓裔 (918年没)
同じ地域に関係する人物
- Raymond du Puy de Provence (1160年没)
- ギー・ドゥボール (1994年没)