伝記
トーマス・カーライルは、1795年12月4日、スコットランド南西部ダンフリーズシャーのエクルフェハン村で生まれた歴史家・評論家である。両親ジェームズとマーガレット・エイトキンは、分離派の長老派教会に属していた。父は石工で、のちに農夫となり、息子が生まれた「アーチの家」を自ら建てた。「人間は働くために創られたのであって、思索したり感じたり夢見たりするためではない」というのが父の信条だった。母は貧しい農夫の娘で、使用人として働いていたところを父と結婚した。9人の子どものうちトーマスは長男で、母は信心深く、息子が牧師になることを願った。母自身はほとんど読み書きができなかったにもかかわらず息子に読むことを教え、父は算数を教えた。彼は、両親のことをいつも高く語り、その性格は両親から深く影響を受けた。
村の学校を経て、7歳になる頃には英語に十分習熟していたため、ラテン語を学ぶよう勧められた。熱心に取り組んだが、ホッダム校の教師がラテン語を知らなかったので、ラテン語のわかる牧師に託され、短い間に確かな力をつけた。のちにアナン・アカデミーに進み、初歩のギリシャ語を学び、ラテン語とフランス語を流暢に読み、算数を徹底的に身につけた。ただし同級生からひどくいじめられ、やり返すようになるまでの最初の2年間は、生涯で最も惨めな時期だったと記憶している。1809年11月、14歳に近い年で、百マイルを歩いてエディンバラ大学に通った。数学と幾何学に抜群の才能を示し、「カーライル円」の考案者とされる。大学の図書館では、18世紀や同時代の歴史、哲学、文学の主要な書物を読み漁り、このころから宗教への懐疑を口にして母を恐れさせた。学業を終えると、教師を務めながら牧師になる準備を進めたが、そうした道をいくつも断念して、文学に定まった。『エディンバラ百科事典』に寄稿し、翻訳者としても働いた。
ドイツ・ロマン主義の文学と哲学に関する多くの文章で、まず英語圏の文学界に名を知られた。ドイツ文学を研究し、ゲーテとの往復書簡もある。それらの主題は、半ば自伝的な哲学小説『衣装哲学』(1833年〜34年)で最初に本格的に展開された。やがてロンドンへ移り、1837年に『フランス革命史』を出して成功を収め、一躍有名になった。これを機に以前の評論が『評論雑録』としてまとめ直された。その後も『英雄崇拝論』(1841年)、『過去と現在』(1843年)、『クロムウェルの書簡』(1845年)、『最近のパンフレット』(1850年)、『フリードリヒ大王伝』(1858年〜65年)など、ヨーロッパと北米で高く評価された著作を出した。ロンドン図書館を創設し、ロンドンとエディンバラの国立肖像画美術館の設立にも力を貸した。1865年にはエディンバラ大学の学長に任命され、1868年まで務めた。ヴィクトリア朝文化の中心にあって「英国文壇の疑いなき首領」「世俗の預言者」とみなされ、1881年2月5日に亡くなった。
著作は明治以来、日本でも多数訳された。内村鑑三は「後世への最大遺物」で、友人ジョン・スチュアート・ミルの内妻によって誤って燃やされた『フランス革命史』の膨大な完成原稿を、カーライルが書き直した逸話を挙げている。夏目漱石はロンドン留学時に記念館を訪れ、帰国後に紀行文「カーライル博物館」を書いた。
同じ年に亡くなった人物
- アンリ・ヴュータン (1881年没)
- エリーザベト・フォン・トゥルン・ウント・タクシス (1860-1881) (1881年没)
- カール・ウィトレヒト (1881年没)
- ソフィア・ペロフスカヤ (1881年没)
- 東太后 (1881年没)
同じ地域に関係する人物
- メアリー・オブ・テック (1953年没)
- ジョン・ダグラス (第9代クイーンズベリー侯爵) (1900年没)
- アンナ・カヴァン (1968年没)
- マーガレット・サッチャー (2013年没)
- ベンジャミン・ヘイドン (1846年没)