伝記
ベンジャミン・ディズレーリは、1804年12月21日にロンドンで生まれたイギリスの政治家、小説家である。のちに初代ビーコンズフィールド伯爵となった。父は作家で、イタリアから来たセファルディム系ユダヤ人の家系の出であり、母マリアも同じセファルディム系のユダヤ人だった。祖父と同じベンジャミンと名付けられ、裕福な両親のもとで貴公子的な環境に育った。祖父は1730年に教皇領のチェント近郊で生まれ、1748年にイギリスへ移って株式仲買人として成功し、1816年に3万5000ポンドの遺産を残して世を去った。ディズレーリ本人は、先祖はスペインのユダヤ人だったと語っていたが、その話は疑わしいとされている。
父アイザックはヴォルテール主義者で、ユダヤ教の儀式にはほとんど出席せず、1817年3月に一家はユダヤ教会の籍を離れた。当時は1829年まで、イングランド国教会の信徒でなければ公職に就けなかった。親友の勧めもあり、13歳のときに国教会で洗礼を受けて改宗した。非国教徒の牧師が運営する学校に通い、ラテン語やギリシャ語では他の生徒に遅れを取ったが、文章力では並ぶ者がいなかった。スポーツにも熱心で、学友の中心的存在となった。しかし、ユダヤ人であることを嘲る上級生と殴り合いになり、15歳ごろに学校を退学した。しばらくは父の書庫で古典を読み漁って過ごした。1821年、17歳のときには弁護士事務所で働いたが、すぐに飽きた。その後、南米鉱山の株の投機に手を出して大損し、新聞発行にも失敗して破産した。処女作の小説を出版して評判になったが、激しい批判も集めた。
その後しばらく南欧や近東を旅し、1832年にイギリスへ帰国した。小説を書く一方で、何度か庶民院議員選挙に出馬し、四度の落選を経て1837年に初当選した。保守党に所属したが、ピール内閣に入閣できなかったことに反発し、党内の反執行部の小グループを結成した。1846年にピールが穀物法の廃止に動くと反対運動を主導し、内閣の倒壊と保守党の分裂をもたらした。党の幹部がピール派に移ったことで党内の有力者として台頭し、1852年にダービー伯爵の内閣ができると、大蔵大臣に任じられた。第三次ダービー内閣では庶民院院内総務として選挙法改正を主導し、第二次選挙法改正を実現した。
1868年にダービーが病気で退くと、保守党首となり首相に就任した。少数与党の第一次内閣は短命に終わり、グラッドストンに首相職を譲ったが、総選挙の敗北を理由に首相が退いた最初の例となった。1874年に首相に返り咲くと、労働者住宅改善法や公衆衛生法の制定など「トーリー・デモクラシー」と呼ばれる改革を行い、外交では帝国主義を推し進めた。1875年にスエズ運河を買収し、1876年にはヴィクトリア女王をインド女帝にした。女王から同年にビーコンズフィールド伯爵の爵位を与えられている。露土戦争後のベルリン会議では、ロシアの地中海進出を防ぎ、トルコからキプロス島の割譲を受けた。1880年の選挙で自由党が勝つと退任し、1881年4月19日にロンドンで病死した。自由党のグラッドストンと並んで、ヴィクトリア朝の政党政治を代表する人物とされる。
同じ年に亡くなった人物
- マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナ (1798-1881) (1881年没)
- スレンドラ・ビクラム・シャハ (1881年没)
- エリーザベト・フォン・トゥルン・ウント・タクシス (1860-1881) (1881年没)
- ピエール=ナポレオン・ボナパルト (1881年没)
- ジム・ブリッジャー (1881年没)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・グリーン (劇作家) (1592年没)
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- エマヌエル・スヴェーデンボリ (1772年没)
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