伝記
ハーラル1世は、9世紀後半から10世紀前半にかけて活動したノルウェーの王である。古ノルド語では「髪の美しいハーラル」を意味する名で知られ、日本語では美髪王とも呼ばれる。生年は不詳で、865年ごろから没年まで王であったとされ、没したのは930年から933年ごろと考えられている。後世の歴史叙述では「ノルウェー最初の統一王」、ホールファグレ朝の祖として位置づけられてきた。しかし現代の研究では、彼の支配の中心は南西ノルウェーにあったとみられており、現在のノルウェー全域を一代で統一したという伝統的な像は見直されている。
生涯を詳しく伝える史料は、主として12世紀以降に書かれた王のサガである。とくにスノッリ・ストゥルルソンの『ヘイムスクリングラ』は1230年ごろに成立し、より古いサガや、アイスランドの歴史家アリ・ソルギルスソンらの著作をもとに物語を発展させている。これに対して、ハーラルに比較的近い時代の史料とされるのは、彼をたたえるスカルド詩(宮廷詩)『ハーラルの詩』などである。この詩は彼を「ハルフダンの子」と呼び、父の名を疑う研究者は少ない。一方、890年代にアルフレッド大王の宮廷で記録された航海記は当時のノルウェー沿岸を知る手がかりになるが、ハーラル自身には触れていない。史料の信頼性をさらに厳しく評価する研究者は、サガに描かれるハーラルを、歴史上の人物というより、アーサー王のような神話的・伝説的な人物として扱うべきだと論じている。
『ヘイムスクリングラ』によれば、ハーラルは十歳のときに父を亡くしてその領国を継ぎ、母方の叔父の補佐を受けながら、父の領地を狙う者たちと戦った。その後は内陸の諸王を破り、トロンデラーグへ進み、有力者ハーコンと同盟してその娘オーサを妻に迎え、さらに沿岸を南下してムーレやフィヨルド地方を征服したという。髪を切らないという誓いや、王女ギュダへの求婚、多数の妻妾と子女の物語もこのサガに載る。ただし、これらの征服を裏づける同時代の史料はなく、歴史性は一つずつ検討する必要がある。母ラグンヒルの系譜や、ヴェストフォルのユングリング家とのつながりも、後世の史料に頼る部分が大きい。
最もよく知られる戦いは、スタヴァンゲルの南西にあたるハフルスフィヨルドの戦いである。ノルウェー統一の決戦とみなされ、伝統的には872年とされてきたが、これは12世紀の歴史家アリ・フロージの計算に由来し、正確な年代は確定していない。20世紀以降の研究では、880年代とする説や、900年ごろまで下げる説が出されている。『ハーラルの詩』は敵としてキョトヴィ富裕王とトール・ハクラングを挙げ、ハーラルの側が勝利して敵が東へ逃げたと詠う。この記述から、ハーラルが東から西へ進んで南西ノルウェーを征服したというサガの筋書きとは異なり、東から来た勢力の攻撃を受けていた可能性も指摘されている。
ハーラルの王権は、南西ノルウェーの王領、沿岸交易の掌握、地方の有力者との人的な同盟に支えられた政治的なつながりだったと説明されている。当時、南西ノルウェーの交易地はデンマーク王権の影響下にあったが、860年ごろからこの王権が弱まった可能性も指摘され、こうした情勢の変化が彼の台頭の背景にあったとも考えられている。息子のエイリーク血斧王とホーコン善王が後に王となったことは比較的確実だが、彼の死後、この結びつきは急速に分裂した。サガはハーラルの血を引くと称する多数の王を挙げるものの、現代の研究で確実にその子孫と認められるのは、初期の数世代に限られている。
同じ年に亡くなった人物
- Guy of Tuscany (930年)
- フヴィーンのショーゾールヴル (930年)
- Ibn Wahshiyya (930年)
- アブー・カーミル・シュジャー・イブン・アサラム (930年没)
- フクバルド (930年)
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