伝記
フランチェスコ・アイエツは、1791年2月10日にヴェネツィアで生まれ、1882年2月12日に没したイタリアの画家である。19世紀ミラノの代表的なロマン主義画家とされ、壮大な歴史画、政治的寓意画、肖像画で知られる。ヴェネツィアの比較的貧しい家の出で、父ジョヴァンニはフランス系の漁師、母キアラ・トルチェッラはムラーノの出身であった。5人兄弟の末っ子で、幼いころから素描の才能を示した。母方の叔母夫婦に育てられ、叔母の夫は裕福な船舶所有者で美術収集家だったという。ごく幼い時期に、古美術商でもある叔父ジョヴァンニ・ビナスコの工房に入り、絵画修復家に育てようとされた。
1798年からフランチェスコ・マジョットのもとで絵を学び、新古典主義の様式を初めて経験した。1800年から1803年にかけては、ファルセッティ画廊で古代彫刻の石膏像などを学び、1803年には旧美術アカデミーの人体素描の授業に出席した。1802年から1806年にかけては、ベルガモ出身の画家ラッタンツィオ・クエレーナの教室で色彩の使い方を学んでいる。1807年に『画家の家族の肖像』を制作し、1808年にはレオポルド・チコニャーラによって教育法が刷新されたヴェネツィア美術アカデミーに入り、新古典主義者テオドロ・マッティーニの絵画学校に通った。チコニャーラは、その後も重要な助言者・庇護者であり続けた。
1809年に奨学金を得て、ローマのサン・ルカ・アカデミーで学ぶことになり、同年10月にヴェネツィアを発った。ローマでは古代美術のほか、ヴァティカンのラファエロの作品を研究し、彫刻家アントニオ・カノーヴァの工房を訪れて大きな影響を受けた。ドミニク・アングルや、ナザレ派の画家たちとも出会っている。1811年にはナポリのアカデミーのコンペに挑んで失敗したが、ナポリにとどまって古代遺物を研究し、チコニャーラの『彫刻史』のための素描を仕上げた。1812年にローマに戻ると、ブレラ・アカデミーのコンペに『ラオコーン』を送って、首位を分け合った。1814年までローマに滞在したのち、ナポリ国王ジョアシャン・ミュラに依頼されて、『アルキノオスの法廷にいるユリシーズ』を制作するためナポリに移った。
その後はカノーヴァが開いた競技会で『勝利の運動選手』により一等賞を得て、アングルらを退けた。1816年にはカノーヴァの依頼で、ヴァティカン美術館の回廊の壁画を描いたが、心変わりが多く制作が遅いため、3点を描いただけで任を解かれた。1818年から1819年には、ドゥカーレ宮殿のティントレットの絵の修復にかかわり、ジョヴァンニ・ベッリーニなど15世紀のヴェネツィアの巨匠たちを研究するよう、カノーヴァとチコニャーラに勧められた。この新しい関心は、1818年から1820年に制作した『ピエトロ・ロッシ』に表れ、1820年にミラノのブレラ展に送られると大きな称賛を受けて、ジョルジョ・パッラヴィチーノ・トリヴルツィオに買い上げられた。1830年代半ばにはミラノのサロンに出入りしていたことが分かっており、1850年にはミラノのブレラ美術館のディレクターに任命された。作品にサインや日付を入れず、ほとんど違いのない同じ構成の絵をしばしば描いたため、評価は難しいとされる。初期にはアングルやナザレ派の影響が見られ、後期の作品には古典復帰の傾向が見られる。
同じ年に亡くなった人物
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- マカリイ1世 (モスクワ府主教) (1882年没)
- ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ (1882年没)
- Rabbi Shmuel Schneersohn (1882年没)
- チャールズ・J・ギトー (1882年没)
同じ地域に関係する人物
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- Savino Guglielmetti (2006年没)
- Gioacchino Guaragna (1971年没)
- ヴァレンティナ・コルテーゼ (2019年没)
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