伝記
銭鏐は、十国のひとつ呉越を建てた人物である。852年3月10日に杭州の臨安県で生まれ、932年(宝正7年)5月6日に没した。幼名は婆留といい、呉越の太祖とも呼ばれる。もとは唐末の軍閥であった。父は銭寛、母は水丘氏で、高祖父は銭碩亶、曾祖父は銭沛、祖父は銭宙である。四人の年下の弟がいた。
幼い頃、近所の大木のそばで子どもたちと遊ぶとき、大きな石に腰かけて他の子に隊列を組んで行進するよう命じ、子どもたちは彼を恐れて従ったという。成長してもまともな職に就かず、塩の密売人となった。県の書記官である鍾起の息子たちと親しくなり、よく一緒に酒を飲み、賭け事をした。鍾起は銭鏐を嫌い、はじめは息子たちとの付き合いを禁じたが、旅の占い師が二人に、銭鏐はいつか非常な栄誉を受けると告げたため、許すようになった。鍾起の息子たちはしばしば銭鏐に金を与えた。このころの銭鏐は、弓や槍に巧みで、神秘的な書物についても基本的な知識があったと伝えられる。
876年から877年にかけて軍官の王郢が反乱を起こすと、銭鏐は同じ臨安出身の董昌とともに地方の民兵に加わり、略奪を防いだ。反乱が鎮められると、董昌は功により石鏡鎮の守備に任じられ、銭鏐はその下で指揮官となった。878年、農民反乱者の曹師雄が鎮海節度使の管轄地や浙東を荒らしたとき、杭州では各県から1,000人ずつを募った。董昌ら8人が民兵の指揮官となり、その軍は「杭州八都」と呼ばれた。その後、黄巣の軍が鎮海を荒らすと、銭鏐はこれを撃退した。881年、淮南節度使の高駢が、長安を奪回すると称して近隣から兵を集め、董昌をも召し出した。銭鏐は高駢に本気で黄巣を討つ意図がないと見抜き、董昌に、杭州を守る必要があると言って戻るよう勧めた。董昌はそのとおりにして戻ることができた。董昌は、新任の杭州刺史の盧深中が着任する前に兵を率いて杭州に入り、盧を恐れさせて着任させず、自ら刺史代行を名乗り、周宝に上奏させて刺史に任じられた。
882年と883年には、浙東の劉漢宏が杭州に攻め寄せたが、董昌の軍を率いた銭鏐は二度とも退けた。886年、董昌は銭鏐に、越州を落とせば杭州を譲ろうと持ちかけた。銭鏐は杭州の軍を発して劉漢宏を繰り返し破り、冬までに越州を占領した。劉漢宏は部下に捕らえられ、董昌に処刑された。董昌は本拠を越州に移し、銭鏐が杭州刺史となった。その後、銭鏐は鎮海節度使に任じられ、乾寧年間に董昌を破って両浙13州を占拠した。
天祐4年(907年)、後梁から呉越王に封じられ、ここに呉越政権が誕生した。在位中は銭塘や江海の堤防を修理し、太湖に堰や水門を築いて、洪水の防止と灌漑の整備を行った。支配地域の農業生産力の向上に力を尽くしたとされる。932年に没し、安国県衣錦郷の茅山に葬られた。多くの子をもうけ、そのうち銭元瓘が文穆王となった。
同じ年に亡くなった人物
- イサーク・ベン・ソロモン・イスラエリ (932年没)
- ムクタディル (932年没)
- アル・ハーキム・アッ=テルミーズィー (932年没)