伝記
ウバイドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーは、873年もしくは874年7月31日に生まれ、934年2月22日に没した人物である。イスラム教シーア派イスマーイール派の第11代イマームで、北アフリカを拠点としたファーティマ朝を建て、その初代カリフとなった。
背景にはシーア派の分裂がある。第4代正統カリフのアリーが661年に暗殺されると、ウマイヤ家のムアーウィヤが唯一のカリフとなり、のちにウマイヤ朝が成立した。シーア派はアリーとファーティマの子孫だけが指導者たるべきだとし、アッバース朝も認めなかった。第6代イマームのジャアファル・サーディクが指名した息子イスマーイールは父に先立って760年に死去し、765年に父が没すると後継者が定まらなくなった。多数派は異母兄弟のムーサー・カーズィムを第7代とした(十二イマーム派)が、一派はイスマーイールは隠れただけだと考えた。これがイスマーイール派であり、9世紀末までには第7代は息子のムハンマド・イブン・イスマーイールとされるようになった。姿を隠した「マフディー」の復活に備えて教えを広める地下組織がダアワで、その指導者がフッジャと呼ばれた。
ウバイドゥッラーは、フッジャであったアフマド・イブン・アブドゥッラーの長男フサインの子として生まれた。父が880年頃に死去すると、叔父アブー・アリー・ムハンマドの下で育ち、後継ぎに指名されて叔父の娘と結婚した。893年には一人息子アブー・カースィムが生まれている。当時のアッバース朝はサーマッラーの混乱やザンジュの乱で危機にあり、ダアワはクーファ周辺からイエメン、インド、ペルシア、マグリブへと広がった。真の指導者はシリア砂漠西端のサラミーヤに隠れ、各地のダーイーの長だけがそれを知っていた。やがてアブー・アリー・ムハンマドは自らがイマームだと秘密裏に宣言し、甥ウバイドゥッラーをマフディー、幼いアブー・カースィムをカーイムとした。
899年頃に叔父が没してウバイドゥッラーが組織を継ぐと、教義の変化が明らかになった。彼は、イマームはムハンマド・イブン・イスマーイールではなく父アフマドであり、現在は自分がイマームだと主張していたのである。組織幹部のハムダーン・カルマトはこれを非難して離反し、義弟アブー・ムハンマド・アブダーンは殺害された。ムハンマド・イブン・イスマーイールの再臨を信じ続ける勢力はカルマト派として分かれた。なお、のちのファーティマ朝が示した系譜は一定せず、スンナ派や十二イマーム派の側はアリーの家系を詐称した偽者だとしている。カルマト派の脅威が迫り、マグリブでアブー=アブドゥッラーの教宣が成功したことから、ウバイドゥッラーは899年に商人に変装してサラミーヤを脱出した。だがアグラブ朝に捕らえられ、シジルマサの牢に投獄された。909年の初め、アブー=アブドゥッラーが大規模な遠征軍を送って救出し、彼はクターマ族を率いる新国家の指導者となって「カリフ」「マフディー」を称した。909年3月までにアグラブ朝は滅び、ファーティマ朝がこれに代わった。911年頃には教宣を主導したアブー=アブドゥッラーを殺害し、名実ともに支配者となった。
クターマ族の支配には都市の住民も憤慨し、各地で反乱が起きた。ウバイドゥッラーはケルアンの南東の海岸に自らの名を冠した首都マフディーヤを築き、920年に移り住んだ。921年にはモロッコに侵攻してイドリース朝から支配権を奪った。922年にはブルガリアのシメオン1世がコンスタンティノープルの共同攻撃を提案する使節を送ってきた。
同じ年に亡くなった人物
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