伝記
エマ・ド・フランスは、894年に生まれ、934年(935年とも)に没した西フランクの王妃である。西フランク王ロベール1世の娘で、西フランク王ラウールの妃となった。異母弟にフランク公でパリ伯のユーグ・ル・グランがいる。
出身のロベール家は、のちにカペー朝を生む西フランクの有力貴族の家である。台頭は祖父ロベール・ル・フォールに始まる。彼はアウストラシアの貴族の出で、シャルル禿頭王に重んじられた軍司令官であり、ネウストリアなどの王領を守ってヴァイキングの攻撃に備えた。トゥールのサン=マルタン修道院の在俗修道院長にも任じられたが、866年にアンジェの北のブリサルトでヴァイキングと戦って没した。二人の息子のうち長男のウードは882年にパリ伯となり、888年に西フランク王に選ばれた。ウードが跡継ぎのないまま没すると、シャルル禿頭王の孫の単純王シャルルが後継者と認められた。
ロベール1世には二人の娘がおり、最初の娘は名が分からないものの、学者たちから便宜上アデラと呼ばれ、エルベール2世・ド・ヴェルマンドワに嫁いだ。次女がエマである。エマが最初の妃ロベールの子か、二番目の妃ベアトリクスの子かは学者のあいだで意見が分かれるが、ベアトリクスの子であるユーグとの年齢差から、最初の妃の子とみる見方が有力である。幼少期についてはロベール家の一員であったこと以外、ほとんど分かっていない。
921年ごろ、エマはブルゴーニュ公ラウールと結婚した。この間に、単純王シャルルがロタリンギア西部に領有権を主張して支持者を孤立させ、ロベール1世は920年にシャルルの敵対者と手を結んだ。シャルルを920年と922年に破ったロベール1世は王に選ばれ、その後、923年7月13日にラウールがソワソンのサン=メダール教会で王に選ばれて戴冠し、エマは王妃となった。ラウールは王となっても公領を手放さず、国を空けることが多いときにはエマがブルゴーニュの統治を代行した。
エマは、夫と兄弟のユーグ・ル・グランとの仲立ちとしての影響力もあって、大きな軍事的・政治的権力を握った。夫の王位をカロリング家のシャルル3世や義兄エルベール2世から守り、931年にはアヴァロンの要塞を占領し、933年には夫の軍とともにエルベール2世の拠点シャトーティエリの包囲戦を主導して成功を収めた。また、戴冠したことが分かっている最初のフランク王妃であり、夫の戴冠より少し後に、ランス大司教スールフによってランスで戴冠された。年代記にそのことが記されている。子には息子ルイが一人いたとみられ、ジュディットという娘もいた可能性がある。
同じ年に亡くなった人物
- ウバイドゥッラー・マフディー・ビッラー (934年没)
- Harthacnut I of Denmark (934年)
- 孟知祥 (934年没)
- アブー・ザイド・アル=バルヒー (934年)
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