HISTORICAL PERSON · 1883年没

カール・マルクス

プロイセン王国時代のドイツの思想家・経済学者・革命家。第一インターナショナルを指導し、エンゲルスと科学的社会主義を打ちたてた。『資本論』に結実した資本主義の研究は、20世紀以降の世界に影響を与えた。

生涯
1883年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
ドイツ連邦共和国(トリーア)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

カール・マルクスは、1818年5月5日の午前2時ごろ、当時プロイセン王国に属していたモーゼル川河畔の町トリーアに生まれた思想家、哲学者、経済学者、革命家である。父はユダヤ教のラビの家系に生まれた弁護士で、母ヘンリエッテはオランダ出身のユダヤ教徒であった。夫妻の第3子で次男にあたるが、兄が夭折したため、実質的には長男であった。のちに妹が4人、弟が2人生まれたが、弟2人は幼くして亡くなっている。生家は1928年にドイツ社会民主党が買い取り、マルクス博物館として保存されてきた。トリーアは古代から続く歴史ある都市で、長くトリーア大司教領の首都だったが、フランス革命戦争とナポレオン戦争のあいだはフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオンの敗退後、ウィーン会議の決議でプロイセン領となったが、政府は慎重に統治し、ナポレオン法典の存続も認めたため、自由主義や資本主義の気風が残された。

マルクス家は代々ユダヤ教のラビで、1723年以降はトリーアのラビ職を世襲し、祖父や伯父もその地位にあった。父ハインリヒは、ヴォルテールやディドロの影響を受けた自由主義者で、宗教にこだわりを持たなかった。トリーアがプロイセン領になって、ユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し、1816年秋(1817年春とも)に、プロイセンの国教であるプロテスタントに改宗した。弁護士だった父の年収は1500ターラーで、トリーアの富裕層の上位5%に入り、屋敷や葡萄畑、貸付金なども保有していた。母方のプレスブルク家も代々ラビを務める家系で、母はドイツ語の会話や読み書きに不慣れだったという。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、子供たちもユダヤ教会に籍を入れさせた。ロスチャイルド家とは遠縁にあたり、マルクスの祖母ナネッテ・コーエンは、ネイサン・ロスチャイルドの妻ハンナ・コーエンの従姉妹にあたる。

1843年に、プロイセンの貴族であるヴェストファーレン家のイェニーと結婚した。イェニーの兄フェルディナントはプロイセンの内務大臣を務めた。マルクスは政治的な出版物のために亡命を余儀なくされ、1845年にプロイセン国籍を離れて、以降は無国籍者となった。1849年、31歳でイギリスに渡り、以後はロンドンを拠点として、何十年もそこで暮らした。主にロンドンで、生涯の協力者となるフリードリヒ・エンゲルスとともに思想を発展させ、1848年の『共産党宣言』や、全3巻の『資本論』などの著作を残した。第一インターナショナルを指導し、社会主義と労働運動に強い影響を与えた。

彼によれば、有史以来の人間社会は階級対立を通じて発展し、資本主義の下では、生産手段を管理するブルジョワジーと、賃金と引き換えに労働力を売るプロレタリアが対立する。史的唯物論と呼ばれる方法で、資本主義が内部から崩壊して社会主義へと変革されると予測し、労働者階級が組織的な革命的行動により資本主義を打倒すべきだと主張した。ライフワークとした資本主義社会の研究は『資本論』に結実し、その理論に基づく体系はマルクス経済学と呼ばれる。1883年3月14日、ロンドンで没した。彼の著作は高く評価される一方で批判もされ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた。

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