伝記
ギゼルベルトは、ロートリンゲン公として知られる10世紀前半の有力貴族である。890年頃に生まれ、939年10月2日に没した。ロートリンゲン貴族レニエ家のレニエ1世の子で、フランス語の呼び名ではジスルベールと記される。父は「長い首」の異名を持つ、ロートリンゲンで最も有力な伯の一人とされ、ギゼルベルトはその長子にあたる。母はアルベラダという。ストゥロやトリーアのサン・マクシミンの俗人修道院長という、名誉と収入を伴う地位も持っていた。
911年に東フランク王ルートヴィヒ4世が死去すると、ロートリンゲンは東西フランクの両派に分かれて対立した。父レニエ1世は親西フランク派の指導者として東フランク派と戦い、その結果ロートリンゲンは西フランク王シャルル3世のものとなった。父の跡を継いだのは915年から916年頃ともされ、920年ともされる。シャルル3世は宮廷の影響から、父に与えた栄誉をギゼルベルトには授けようとしなかった。ロートリンゲンの権力は宮廷顧問のハガノらが握っており、ギゼルベルトは王に対する強い敵対者となった。やがて独立を求めて王に背き、ロートリンゲン王を称したが、シャルル3世に敗れて東フランク王ハインリヒ1世のもとへ逃れた。
921年11月のボン条約で東西フランク王は互いの領土を確認して休戦を約し、ロートリンゲンはシャルル3世の支配下と認められた。ギゼルベルトはこのとき王に服したが、間もなくロベール家の反乱に加わり、反乱側の貴族が西フランク王に推した人物の擁立にも加わった。シャルル3世は捕らえられ、923年にロベールの娘婿ブルゴーニュ公ラウールが王となった。ギゼルベルトは初めラウールを支持したが、圧力を受けて再びハインリヒ1世のもとへ走った。ハインリヒ1世は925年(または928年)に彼を正式にロートリンゲン大公とし、928年には娘ゲルベルガを嫁がせた。これによってロートリンゲンは東フランク王国、すなわちドイツ王国の領土となることが確定した。934年には、フランケン大公エーバーハルトや司教らとともに、ハインリヒ1世の使者として西フランク王ラウールのもとへ派遣されている。
しかし王家の一員となった後、ギゼルベルトは与えられた自由な立場に慣れ、独立への志向を捨てなかったとされる。936年にハインリヒ1世が没してオットー1世が即位すると、義兄にあたる新王からたびたび注意を受け、両者の間は隔たっていった。938年にオットー1世の弟ハインリヒが反乱を起こすと、ギゼルベルトはエーバーハルトとともにその側に加わり、西フランク王ルイ4世にも援助を求めた。939年10月2日、アンデルナハのライン河畔で宴を開いていたところをオットー1世に急襲され、敗れて川で溺れ死んだ。エーバーハルトも同じ戦いで命を落としたとされる。ロートリンゲン大公位は、同じ年のうちにオットー1世へ降伏した弟ハインリヒが得ることになった。
ギゼルベルトとゲルベルガの間には、アルベラダ、ハトヴィヒ、ハインリヒ、ゲルベルガの子があった。アルベラダはルシー伯ルノーと結婚した。ハトヴィヒは早世した。ハインリヒは、ロートリンゲン公オットーのもとで養育されたものの944年以前に早世し、公位を継げなかった。末のゲルベルガはヴェルマンドワ伯アルベール1世と結婚した。寡婦となったゲルベルガは、939年に西フランク王ルイ4世と再婚している。
同じ年に亡くなった人物
- ディルク1世 (ホラント伯) (939年)
- アゼルスタン (イングランド王) (939年没)
- ピエトロ・カンディアーノ2世 (939年)
- レオ7世 (ローマ教皇) (939年没)
同じ地域に関係する人物
- ハインリヒ・フォン・キットリッツ (1874年没)
- ルートヴィヒ5世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯) (1626年没)
- オットー・シュニーヴィント (1964年没)
- トーマス・ナスト (1902年没)
- ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯) (1790年没)