伝記
アゼルスタンは、894年ごろに生まれ、939年10月27日に没したウェセックス王であり、現代の歴史家の多くから初代イングランド王とみなされる人物である。エドワード長兄王とその第1王妃エクグウィンの長男として生まれ、アルフレッド大王の孫にあたる。生涯結婚せず、子もなかったため、没後は異母弟のエドマンドが王位を継いだ。マームズベリのウィリアムによれば、924年に王位につくころ13歳であったといい、そこから生年が推定されている。第1王妃が産んだ唯一の男児であったとされるが、母エクグウィンについては名前を記した同時代の文献すらほとんどなく、身分も、卑しい出身とする年代記と高貴な出身とする年代記に分かれる。彼女を王の妾とみる歴史家もいて、それがアングロサクソンの諸侯が924年の彼の即位をしぶしぶ認めた理由の一つだとされる一方、非嫡出子という主張は王位継承の際に生じたものにすぎないとする見解もある。同じウィリアムは、アルフレッド大王が幼い孫に深紅のマントや宝石を埋めた帯、金の鞘の刀を与えて祝したと記している。
924年7月にエドワード長兄王が没すると、アゼルスタンはマーシアの人々に王として認められた。ウェセックスでは異母弟エルフワードが王として承認を受けていた可能性が指摘されているが、彼は父の死の3週間後に亡くなった。アゼルスタンはその後数か月にわたってウェセックスで抵抗を受け、戴冠式は翌925年の9月にずれ込んだ。927年には、イングランドに残っていた最後のヴァイキングの王国ヨールヴィーク(ヨーク)を征服して、イングランド全体を治める最初の王となった。934年にはスコットランドへ侵攻し、スコットランド王コンスタンティン2世を服従させたが、これに反発したスコットランド人とヴァイキングらの連合軍が937年にイングランドへ攻め込んだ。アゼルスタンはブルナンブルでこれを迎え撃って撃滅し、この大勝によってブリテン諸島と大陸での覇権を確かなものにした。939年の彼の死後、ヨークは一時ヴァイキングに奪い返されたが、954年までにイングランド側が再び取り戻した。
内政では、中央集権化を推し進めた。勅許状の管理を強め、遠方の諸侯を評議会に招いたが、そこにはアゼルスタンに忠誠を誓ったウェールズの諸王など、イングランド外の諸侯も加わった。10世紀の歴代の王のなかで、彼ほど治世中の法的文書が多く残る王はない。それらの文書からは、国中で頻発していた強盗と、それによる社会秩序の崩れを彼が案じていたことがうかがえる。法の改革は、祖父アルフレッド大王の改革を土台に行われた。またウェセックスの王たちのなかでも屈指の敬虔さで知られ、聖遺物の収集や教会の建立を進めた。宮廷は当時のイングランドにおける学問の中心となり、のちの改革の下地となった。自身の姉妹を大陸の諸侯と婚約させるなど、他のどのウェセックス王よりもヨーロッパの政治で重要な役割を果たした。
「初代イングランド王」の呼称には議論がある。エグバート王やアルフレッド大王を初代とする見解も、中世以来の歴史叙述などに存在した。しかしアルフレッドの支配はウェセックス、南マーシア、ケントにとどまり、北部と東部はなおスカンディナヴィア系の支配下にあった。ブリタニカ百科事典は、アゼルスタンをイングランド全域に実効支配を及ぼした最初のウェセックス王と記しており、これが現在最も有力な説となっている。彼は「もっとも偉大なアングロサクソン人の王」とも評される。
同じ年に亡くなった人物
- ディルク1世 (ホラント伯) (939年)
- レオ7世 (ローマ教皇) (939年没)
- ギゼルベルト (ロートリンゲン公) (939年没)
- ピエトロ・カンディアーノ2世 (939年)
同じ地域に関係する人物
- パメラ・ブラウン (1975年没)
- イザベラ・ブロウ (2007年没)
- ローリー・リー (1997年没)
- キャサリン・パー (1548年没)
- エドマンド1世 (イングランド王) (946年没)