伝記
ルーダキーは、9世紀後半から10世紀前半にサーマーン朝で活躍したペルシア語の詩人であり、歌い手、楽人でもあった。生年は850年代初頭あるいは860年代とされ、没年は940年か941年である。本名はアブー・アブドゥラー・ジャアファル・ブン・ムハンマドといい、出身地にちなんだ「ルーダキー」の号で呼ばれる。新ペルシア語で書いた最初の大詩人とされ、イランでは「新ペルシア詩の創始者」、タジキスタンでは「タジク文学の父」と称される。
生涯については不明な点が多く、多くは詩から再構成されたものである。サマルカンド近郊のルーダク村あるいはパンジ・ルーダク村の生まれとされる。13世紀前半の伝記作者アウフィーは彼が生まれつき盲目だったと記し、長らく信じられたが、詩のなかの生き生きとした自然の描写などから、現在では疑問視されている。8歳でクルアーンを暗記し、詩にも秀でていたと伝えられ、著名な楽人から竪琴を教わった。美しい声と詩の才、楽器の腕によって、若いころから人気を集めた。
30代後半になって、サーマーン朝の宰相に招かれて宮廷に入り、ブハラで活動した。宮廷詩人は単なる娯楽を提供するだけでなく、助言や道徳的な指導も期待される役割であった。国王ナスル2世や宰相バルアミーの庇護のもとで高い地位と財産を得て、200人の奴隷を持ち、旅に出るときには400頭のラクダに荷物を運ばせたと伝えられる。ナスル2世がヘラートに4年以上滞在して帰ろうとしなかったとき、貴族たちに頼まれて故郷ブハラの魅力を詠んだところ、心を打たれた王が急いで帰ったという逸話も知られる。
弟子で親友の学者詩人シャヒード・バルヒーが936年に没したときには、追悼の詩を書いた。しかし937年にバルアミーが失脚すると、ルーダキーの立場も悪くなり、やがて宮廷から追放された。宮廷でイスマーイール派への改宗者が増えたことが背景にあるとされ、彼をイスマーイール派とみる意見もあるが、ソビエトの学者ベルテルスは、保護者との関係で一時期傾倒したにすぎないと反論した。晩年は貧しく、故郷に戻って盲目のまま孤独に没したとされる。1940年にタジクの文学者アイニーが墓を見つけ、1956年にソビエトの調査団が行った遺骨の調査から、晩年に盲目にされたと推測された。研究者ミルゾエフは、故郷へ帰った彼が政敵の手で盲目にされたうえ殺害されたと推測している。
作品は10万句を超え、一説には18万句ともいうが、現存するのは2,000句足らずで、詩集も残っていない。インドの説話『パンチャタントラ』にもとづく『カリーラとディムナ』の韻文訳が代表作である。後世の宮廷詩人と異なり、難解で華美なアラビア語の語彙を避け、素朴なペルシア語と方言を用いた。頌詩に最も長け、ブドウが酒になる過程を詠んだ「酒の母」が有名である。詩のテーマは教訓、悲しみ、享楽、愛、酒の賛美と多岐にわたり、宗教的な制約は受けず、イスラーム的な要素はほとんど見られない。作風は簡素で情熱的で、民謡に近いとも評される。愛の歌に好んで用いたガザル(抒情詩)は、11世紀の詩人ウンスリーが感嘆したというが、これも散逸している。タジキスタンの500ソモニ紙幣には彼の肖像が用いられている。
同じ年に亡くなった人物
- 平将門 (940年没)
- エーバーハルト (バイエルン公) (940年)
- イブン・アブドラッビヒ (940年)
- イブン・ムクラ (940年)
- ラーディー (940年没)
同じ地域に関係する人物
- スルタン・アフマド (ティムール朝) (1494年没)
- ラフモン・ナビエフ (1993年没)
- アブー=マフムード・ホジャンディー (1000年没)